『故郷の水へのメッセージ』

 大岡信詩集『故郷(こきやう)の水(みづ)へのメッセージ』花神社1989年初版を読んだ。

 「微醺詩」1986年発表の結びの一行。

《  酒には品が必要だ  》

 夕食後、コーヒーを飲んで思った。天国に酒がなくてもいいが、コーヒーがなければ天国に居たかないわ。 まあ、お呼びじゃないとは思う。

 「火の霊がうたふ」1988年発表の結び。

《  わたしは火だ
   わたしは霊だ  》

 一昨日の大岡信ことば館でのゼミで岸井大輔氏がテキストに使用した『創作モノ・オペラ 火の遺言』1995年初演の 台本を想起した。

 この詩集で最も印象深かったのは「あとがき・独白」だった。

《 しかしその一方で、私は自分の詩作品がほとんど常に、同時代の流行の生活感覚や流行思想に対する本能的な 疑惑、嫌悪、怒りの衝動と切離せないところで芽生えたものであることを知っている。こんな人間の詩が流行する わけがない。 》

 反語的に読んでしまう自分がいる。
 ネット検索で以下の対話に遭遇。

《 大岡-- 言語学の本というのは,できあがった後の言葉についてしか書いていませんからね。
  中村-- そうなんです。先ほどからのお話の,生まれてくるところに本質を知る鍵があるというのは 言葉についても同じなのでしょうね。
  大岡-- 僕が非常に気に入っているアイデアは,インドの聖典ヴェーダ』に言われているそうですが, 言語というものには4つの種類があって,人間が普段喋っているのは一番浅いところの言葉である。 あとの4分の3は隠れていると言うんです。
  中村-- 詩は,その4分の3をどう表現しようかということなのですね。
  大岡-- 僕はそう思っています。その場合にその4分の3がわかっているわけではないです。 しかし暗示できるということが4分の1の部分の非常に大事なことですね。暗示しているというと, 曖昧なものに頼っていると受け取る人がいるかもしれないけれども,暗示は全体に到達するための非常に 重要な促進力なんです。 》
 https://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/012/talk.html

 ネットの見聞。

《 僕の勘違いでなければ、若冲の作品が今日まで残ったのは、自身で京都の相国寺に寄進したからのはず。 作品さえ優れていれば、必ず理解されて残るというような甘いものではないのだ。 》 芦辺 拓
 https://twitter.com/ashibetaku/status/724214851115970561

《 モーツァルト交響曲40番のこの異様な密度と深まりは、たぶん彼がこの曲を自分のために書いてるから だろうなと思う(たとえ注文されたものだとしても)。それか亡くなった誰かのため。不思議なことだが、 自分のため(だけ)に創作したものが、その後他人によって長く慈しまれ、残り続けていく。 》 森岡正博
 https://twitter.com/Sukuitohananika/status/724064790012780544

 昨日倉庫から持ってきた奥野淑子さんの木口木版画『 Plant II 』7cm×7cmを見て、同様のことを思う。

 ネットの拾いもの。

《 市松模様 : 一抹の不安が残る模様 》

《 イルミネーションが綺麗なとこ行くよ!って連れてってた場所が道路工事現場だった許せない。 》

《 回転寿司行って喜ぶような女と結婚できた男は幸せものである。 》

《 新婚旅行中の夫婦
  「ねえ、あなた、あの山はなんて山?」
  「さあ、知らないね」
  「ねえ、あの下の方の川は?」
  「さあ、知らないね」
  「変ね。ハネムーンでは今まで知らなかったことを教わるって
   お母さんに言われたのに…」 》