『偶然性と運命』つづき

 昨日引用した〈様相〉の概念に、北一明の茶碗を連想。

《 一碗を通じて人類の歴史を透視する。 》 鶴見和子

 上記評言がずっと心に残っている。

《 こうした視点から書かれた『悲劇の誕生』は、当時の古典文献学の論文の形式を大きく逸脱していたことと、 さらにもう一つ、当時の通念となっていた古代ギリシア文化観と背馳するものだったため、ヨーロッパの古典文献学界から、 はじめは無視、やがて厳しい批判を浴びることになり、いわば学界から追放される憂き目にあう。 》 112頁

 北一明『ある伝統美への叛逆』。ニーチェに北一明が重なる。陶芸界は今も無視黙殺。すなわち、批判もない。

《 この後期のニーチェの思想にあって、〈力への意志〉の概念と〈等しきものの永劫回帰〉という概念がどう結びつくかは、 さまざまな論議を呼んだ難しい問題であるが、いまは仮に、〈力への意志〉は存在者の全体が何であるか、その根本を 名指す概念であり、〈等しきものの永劫回帰〉は存在者の全体がいかにあるかを名指す概念だというハイデガーの考えに 従っておこう。 》 114頁

 何であるか、いかにあるか。大岡信がたしか『肉眼の思想』で語っていたと記憶するが、文学とは何かを追求するよりも、 文学の可能性を追求すべき、といった発言が心に刻まれている。とは何か、と考えると袋小路に這入ってしまう。 何ができるか、を追求すると世界が開かれてくると思う。……閑話休題、哲学に向いていないから哲学に惹かれるワタシ。 言葉を、書かれた文章を理解することが、私にとっていかに困難であるか。その哲学の生半可な知識を援用して美術を語る。 一抹の後ろめたさ、心苦しさを感じる。まあ、凡人とは言わぬが、一般人のたわごとだ。

《 〈運命〉もまた、こうして立ちあらわれてくる、ある意味では相互主観的な、一つの強い〈意味〉だとは考えられない だろうか。 》 159頁

《 〈出逢い〉とは、他者が激しい情動的体験によってこの自己閉鎖を打ち破り、〈自己─自己〉の構造を打ちこわして、 ふたたび〈自己─他者〉の構造が、つまり〈他者と共にある〉本来的な存在が回復されることだとか考えられないだろうか。 だからこそ、この出逢いを機縁として時間性の再構造化も起こりうるのであろう。 》 198頁

 人生を振り返ると、運命と幸運な出逢い=運命的な出逢いを感じる。出逢いがなければ今の自分はない。

 午後、 「三島・緑と水の杜・三島梅花藻の里」竣工式に参列。市長、県会議員、市会議員それにNHK以下報道各社。 良い公園になった。

 ネットの拾いもの。

《 先日知り合った来日したてのアメリカ人の男性に「日本は本当に一般人は銃を持てないの!? 銃以外の武器も!? 君達はゾンビが襲ってきたらどうやって戦うんだい!?」と聞かれたのが本日のハイライト。 》

《 この先どんな苦しいことがあっても耐えてゆける気がする。若冲展の5時間待ちを耐えぬいたのだから。 》