『骸骨の黒穂』つづき

 夢野久作『骸骨の黒穂(くろんぼ)』角川文庫1980年初版、表題作以外の五篇(「山羊鬚編集長」「笑う唖女」 「巡査辞職」「人間レコード」「芝居狂冒険」「オンチ」)を読んだ。どれも秀作。初期の山田風太郎同様、 鮮やかに畳み込む展開と凝縮された表現は、時代を超えた活力がある。見事だ。
 米倉斉加年の表紙絵が、またなんとも味わい深い。
 http://ameblo.jp/sankalab/entry-11926486240.html

 自宅前の大通りは歩行者天国。晴天の下、ハロウィーンの仮装した親子連れで大賑わい。平和だ。

 ネットの見聞。

《 味戸ケイコ展。沼津市内はもとより、三島、清水町など、遠くからおいでいただき恐縮です。と思っていたら、 Twitterで知りました、と東京、浜松からも、、、。恐縮です。 》 Galleryカサブランカ
 https://twitter.com/ga_casab/status/789969140299608064

《 本書では世界大戦以後の、1950〜80年の経済成長期、1980〜2010年の経済的グローバリゼーション、 といった段階に続く第三局面「グローバリゼーション・ファティーグ〔疲労〕を分析しています。 》  エマニュエル・トッド 『問題は英国ではない、EUなのだ』文春新書
 http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166610938

 私は2011年がデジタルの終わりの始まり、マスコミの終わりの始まりの年と予感していたが、東日本大震災原発災害がその転換を象徴した。深い分析から同様の見方をする人がいた。また、コンテンポラリー・アートの 衰退、退場もその中にあると、私は直感している。一言で言えば今は現代アート疲れ。現代アートに憑かれた人々は 退場してゆく。その後を担うものは何か。作品は「現代」にとらわれない辺境から出現する。新たな規準が求められる。 それは、美術批評家には未だ言葉でしかと形容されていない気がする。私は、そんな辺境の作品を実見している。それは 「現代アート」の範疇には入らないもの。ゆえに大いなる勘違い、見当違いかも知れない。が、時代に先んじている、 と作品を評価するからワクワク感のなかにいる。

 ネットの見聞。

《 復興五輪って言うけれど
  なにがどう復興するの?
  5万人の仮説住宅の人が
  普通の住宅に住めるの?
  まさか元気あげるだけ?
  美しい言葉だけ踊る日本 》 かおなし
 https://twitter.com/cocorono121/status/789262708126261249

 ネットの拾いもの。

《 ただちに影響ないだったしそろそろ影響出てきてもおかしくないんじゃね 》