「タメとゆらぎの逸脱」

 アフリカはギネアのバンド Bembeya Jazz Nationalの「 Petit Sekou 」という演奏をCDで聴いて「タメ(溜め)とゆらぎの逸脱」 という言葉が浮かんだ。
 https://www.youtube.com/watch?v=C_Nq3lJg0OM

 BEMBEYA JAZZ NATIONAL『 The Syliphone Years 』という二枚組CDの最後の演奏で、ぞっこん。久しぶりに聴いてやはりシビレた。 その同じ録音があった。上記のリンク先。オルター・ポップから出た直輸入日本盤の帯から。

《 一九六○年代後半から七○年代半ばにかけて残された、伝説の楽団による最高のアフロ・ポップの数々は、三○年以上のも前の 録音とは思えないほど、新鮮に聞こえる。 》

 はや四十年だ。同じCDの四番目の演奏「 Sou 」が私的双璧。うーん、やはりシビレルウ〜。
 https://www.youtube.com/watch?v=D6iIvoh1_bI

 名演奏にはビートの「タメ(溜め)とゆらぎの逸脱」が厳然と存在する。かっちりきっちりのリズムではない、ビートなのだ。 そこに聴く者の心と肉体を揺さぶる共鳴、共振がある。そして演奏の逸脱がいつしか聴き手の逸楽へと変化している。

 上記「 Petit Sekou 」は1976年の発表。当時はまだアフリカの大衆音楽を耳にすることはなかった。タモリのLPアルバム 『TAMORI』1976年録音収録の「”武蔵と小次郎”part4〜アフリカ民族音楽”ソバヤ”」からアフリカ音楽ってこのようなもの というイメージだった。今書いて気づいた。「アフリカ民族音楽」だ。大衆音楽でもポピュラー音楽でもない「民族音楽」。
 https://www.youtube.com/watch?v=Xx8mNJLIwbU

 こうして聴いてくると、1973年発表の「 Sou 」がまるで昭和ムード歌謡に聞こえてしまう。同時代性というものかな。

 朝、昨日見てしまった雷井戸の湧水が四の宮川に流れ落ちる周辺のヒメツルソバを抜く。土のう袋半分、三十分で終了。 寒陽気なのに汗ばむ。気になることはさっさと片付ける。

 ネットの見聞。

《 何かを始めるのに年齢は関係ないのだなと思わされると同時に、共感し力づけてくれる存在の重要性をつくづく感じます。 》  大野左紀子
 http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20161031/p1

 ネットの拾いもの。

《 そう、三波春夫三波伸介である。名前がサードウェーブなのだから。 》 CREA WEB
 http://crea.bunshun.jp/articles/-/11756?page=2

《 のんきな倒産 》 いかふえ
 https://twitter.com/ikafue/status/793699010330505216