「藤田嗣治の騙り」

 13日の毎日新聞「今週の本棚」、『藤田嗣治 妻とみへの手紙』人文書院への加藤陽子の評を読んで藤田嗣治 『腕(ブラ)一本│巴里の横顔』講談社文芸文庫2005年初版へ手が伸びたのだが、年譜を読むとじつに波乱に満ちた 生涯だったことが知れる。加藤陽子の評でひどく気になったのは以下の文。

《 とみと藤田の関係は、3年半の別離の果ての、人を介しての離婚で終わり、藤田は時をおかずフランス女性と 結婚する。藤田の圧倒的なモノローグを、「語りに騙りが内包」されたものと看破したのは、本書に巻頭論文 「消された声 鴇田とみ『からの』手紙」を寄せた堀江敏幸氏だった。読んでいると、とみの側の「抑えに抑えた 呟(つぶや)き」をどうしても聞きたくなる、と。同感だ。 》

 ピカソを《 一筋縄にかからぬ傑物である。 》と評した藤田嗣治も同じだ。文庫の年譜を読むと、一筋縄ではいかない 複雑な藤田像が浮かぶ。藤田の文章は、裏読みが求められる気がしてきた。裏読みは、お人好しの私には無理。

《 そこでまた私はパリの女を思う。パリの女は流行を起す女で、流行を真似る女ではない、パリジャンヌは他人と同じ ということをもっとも嫌う。 》 「パリの女」162頁

《 女は、女でなくては出来ない仕事にしようというフランスの女を、私は古くて新しい女だと思う。 》 「フランス女」 164頁

《 私は正直にいってフランスの女が一番好きだ。 》 「日本人」164頁

 以上の短文は「アトリエ漫語」という題でまとめられている。最後の短文は「日本画」。その結び。

《 四十はまだ青年だ。私の前途もこれからだ。 》 168頁

 1926年、昭和元年だ。その十年前、1916年三十歳の時、とみと離婚。年譜から。

《 一九四九年(昭和ニ四年) 六三歳
  三月、羽田からアメリカに発つ。岡田謙三夫妻らわずかな見送りの人々に「日本画壇は早く世界的水準になって ください」と言い残した。 》

 岡田謙三、いい人だなあ。中学生の頃、平凡社のPR誌『月刊《百科》』付録の大型絵葉書(要25円切手)の岡田謙三 『サーカス』1947年東京作者蔵に深い印象を受けた。三十数年後の1999年、横浜美術館のコレクション展で実物に遭遇した。 驚いた。群像画だ。絵葉書ではタバコを咥える赤い服の若い男の胸像だけトリミング。しかもそれは男ではなく女性だった。 横長の大作『シルク』。  http://1.bp.blogspot.com/-1XtyEv87XCM/VdAkK2B5ZaI/AAAAAAAAHlo/34ytke6va58/s1600/%25E5%25B2%25A1%25E7%2594%25B0%25E8%25AC%2599%25E4%25B8%2589_%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25AB%25E3%2582%25AF.jpg
 パンフレットの解説から。
《 『シルク』(サーカスのこと)は、1947年(同22年)の二科会第32回展に出品され、第1回会員努力賞を受賞した作品。 (中略)サーカス団員が有機的な形態の色面として画面に配されている。 》

 数日前、年配の女性から届いた絵葉書は、藤田嗣治の猫の絵(1927年)だった。年譜から。

《 一九一七年(大正六年)三一歳
  この頃盛り場からの帰り道、足にまとわりつく猫を連れ帰り飼い始める。やがて猫の絵は藤田のトレードマークとなる。  》

 ネットの見聞。

《 セルビアでは果樹の花というのは愛でるものではなかった。桜といえばさくらんぼであってそれは赤い実のイメージが第一に浮かぶ。 これはロシアでも同じと沼野氏が後半の鼎談のときに補足しておられた。チェホフの「桜の園」はじつは「さくらんぼう畑」 という訳の方が近いかもしれないと。 》 daily-sumus2「ツルニャンスキー」
 http://sumus2013.exblog.jp/26902516/

 ネットの拾いもの。

《 懸命な判断と思います。 》

 お知らせ

 NHKテレビ『さわやか自然百景』、「富士山 三島溶岩流」で源兵衛川を放送予定。
 総合       20日(日)午前7時45分〜8時00分
 BS プレミアム 21日(月)午前11時00分〜11時15分
 http://www4.nhk.or.jp/sawayaka/x/2016-11-20/21/28447/2503715/