『述語的世界と制度』「第四章 他者・暴力・時間」四

 「第四章 他者・暴力・時間」最後のニ節「七 〈運命的な暴力〉と〈呪われた部分〉」「八 力・権力・暴力」は、 ワルターベンヤミン〈運命的な暴力〉とジョルジュ・バタイユ〈呪われた部分〉そしてエマニュエル・レヴィナス三者の論を 軸に論述が進む。

《 〈暴力〉はレヴィナスにおいて〈イリヤ〉と表裏をなす問題である。 》 242頁

《 ベンヤミンの論文「暴力批判論」は、暴力論としてユニークであり先駆的である。というのは、国家生活、社会生活を営む われわれ人類にとって、暴力が至るところに発生し、維持され、増大するのはなぜか、人類に暴力が付きまとうのはなぜか、という 問いかけを根底に持っているからである。さらにその先に、〈原理〉として暴力そのものの批評基準を追求したことである。 》  243頁

《 聖性と暴力の触れ合うところに出てくるもう一つの大きなテーマは〈戦争〉である。戦争についても、征服にもとづく人間の 奴隷化についても、バタイユは類まれなかたちで内面から捉えている。すなわち、彼は述べている。一つの集団の統一は、供犠を 事物の世界のうちに取り込み、合体させることによって行われるが、そのとき、破壊的な暴力性が〈外部〉へと向かいうるように なる。外部へと向かう暴力は、原則としては供犠や祝祭に対立する。しかし、戦争は、死を賭けた戦闘、虐殺、略奪などにおいて、 祝祭に近い意味を持ちうる。 》 251頁

《 ただし、このニュートラルなエネルギーたるや、過剰になるときにだけ問題になるのではない。このエネルギーのニュートラルな 性格は、そのニュートラル性そのものによって、有意味的世界を解体する力を持ちうるからである。レヴィナスのいう〈質料性〉 あるいは〈イリヤ〉性とは、そういうものにほかならなかった。
  すなわち、〈イリヤ〉についての考察のなかでこう言っていた。これまでの悪は、存在の欠如つまり無と見なされてきたが実は、 存在の積極性自体のうちに、なにか根本的な禍悪があるのではなかろうか、と。また、〈質料〉についての現代絵画の新しい表現に 触れ、こうも言っていた。存在の質料性の発見は、新しい質の発見ではなく、存在の形なきうごめきの発見なのである。《質料とは、 〈イリヤ〉という事実そのものである》と。 》 253頁

 またまたなんとも難しいが、じつに刺激的で惹かれる論述だ。

《 このようなベンヤミンバタイユの〈力・権力・暴力〉についての考え方と比べるとき、レヴィナスの場合の考え方の特徴は、 次の点にある。すなわち彼は、第二次大戦下においてユダヤ人としての過酷なナチズム体験を踏まえて、〈戦争〉の暴力性を強調 するとともに、そこからきびしい自他関係において、他者が自己の精神に侵犯し、自由を剥奪することのうちに、〈暴力〉の核心を 見ている。 》 255-256頁

《 そして、先に述べたように、レヴィナスの場合、このような暴力論の背後に、あの〈イリヤ〉論が控え、ベースをなしている。 〈イリヤ〉については〈質料〉とも言い換えられているが、さらに、ニュートラルなエネルギーとしての力と言い換えることも できる。そしてこのエネルギーのニュートラルな性格は、まさにそのニュートラル性そのものによって、有意味的世界を解体する 力を持ちうるのである。 》 256頁

《 さて、以上見てきたことから、〈力・権力・暴力〉は、大まかにいって、次のような三つの段階から成るといっていいだろう。 すなわち、一、まず、解体力を持っているニュートラルなエネルギーとしての〈力〉あるいは質料(さらにいえばカオス)がある。 ニ、次に、これらはいずれも、ある一定の拘束条件のもとに置かれて、制度化されるとき、大なり小なり意味と方向性とを持った 〈権力〉や〈権能〉になる。三、そして最後に、解体力を持ったエネルギーとしての〈力〉や質料が、拘束条件や制度に対して 過剰化し、侵犯力や爆発力を持ったものとして現われ、働くとき、それは〈暴力〉と呼ばれるものになる、と。 》 257頁

《 これらの三段階において、とくに注目されるのは、この最後の段階において、〈聖性〉が出現することであろう。 》 257頁

 先だっては引用しなかったが、イリヤと現代絵画について論及されているくだりには引っかかっている。

《 ところでレヴィナスは、『実存から実存者へ』の全体において、この〈イリヤ〉に対し主として三つの方向から接近している。 》  238頁

《 第一には、存在と存在者との関係を厳密に押さえようとするときに出てくる〈瞬間〉の検討を通してである。 》 238頁

《 次に、第二には、芸術とくに現代絵画に見られる〈異郷性〉(エグゾティスム)をめぐってである。レヴィナスによれば、 異郷性の出発点は、生の事象との関係の間接化にある。絵画や彫刻はわれわれの世界に属する対象物であるが、それを通して 再現されている事物は、われわれの世界から離脱して異郷に入っている。とくにリアリズムを超えようとした現代絵画では、事物は 普遍的秩序の構成要素ではなく、ひび割れが生じた世界の連続性のなかで、個別的なものが裸の状態で浮き出している。 このような絵画による物質の再現のうちに、世界の変形──つまり裸形化──が格別魅力的に実現されている。
  そこにあるのは、単純で絶対的な、裸の要素、存在の膨らみあるいは腫れ物である。対象は質料的(物質的)対象としての 潜在力を発揮し、その質料性の絶頂に達する。それは、古典主義的な唯物論を培ってきた物質、思考や精神に対立する物質とは なんらの共通性もない物質性(質料性)の観念である。それは厚ぼったくて、粗粗しく、鈍重で、悲惨なものである。その質料的 対象は、装置の一部をなし、そうすることでおのれの裸形を隠している。存在の質料性の発見は、新しい質の発見ではなく、 存在の形なきうごめきの発見なのである。《質料とは、〈イリヤ〉という事実そのものなのである。》 》 239頁

《 最後に第三には、あらゆる存在が無に帰したことを想定しての、存在者なき存在を、すぐれて人間的な〈実存者なき実存〉 のかたちで彼が行なった検討を通してである。 》 239頁

 難しいことはさておいて。午後、穏やかな陽気なので、温水池からの三面張の一用水路の数十メートルだけにいるカワニナを採取。 やや深いのでズボンを上げてサンダルで入る。バケツに入れていると、通りがかりの人から何度も声を掛けられる。こんなことを しているのは私だけだからなあ。適当に切り上げ、源兵衛川中流部、下源兵衛橋から上流に放つ。通りがかりの夫婦にカワニナの説明。 大磯から来たそのご夫婦は、蒲焼きを賞味後、川を下っていると。橋上の案内板の雷井戸に興味を持たれたのでご案内。歩くのが 趣味のようなので、そこから西へ、清住緑地へご案内。カワセミが飛んでゆく。湧水を堪能して広小路駅へ。自転車を自宅へ入れ、 長靴を履き替えで源兵衛川上流部〜四の宮川〜中央給水塔〜久保町給水塔〜御殿川上流部を回って白滝公園へ。ブラタモリみたいと 奥さんから喜ばれる。ここでお別れ。帰宅。

 ネットの見聞。

《 縄状溶岩at三島 》 山田英春
 https://twitter.com/lithosgraphics/status/816097998014812160

 楽寿園かな。

《 私は神社仏閣(の建物)が結構好きで、旅行したら必ずその地方の神社仏閣は見て回るんです(ただしお賽銭入れませんし お参りしません)。でも最近異変が起きてるんです。それが「憲法改正に賛成します」という神社の出現です。 外からではわからなかった彼らの思想がようやく見える形になりました。 》 名もなき投資家
 https://twitter.com/value_investors/status/816149914279284736

 ネットの拾いもの。

《 お地蔵さんって閻魔様の化身で人々の行いをずっと見ていたのか。昔から監視カメラってあったんだな。 》 鯨統一郎
 https://twitter.com/kujira1016/status/816419635775959041

《 お札は紙だが役に立つ 》