『現代芸術の地平』七

 市川浩『現代芸術の地平』岩波書店1985年初版、「可能態の充実──観世寿夫追悼──」を読んだ。

 観世寿夫の能をめぐる論考だが、そこから別の方へ思索が向かう。

《 ヨーロッパ流の演技にしろ演者が「我見(がけん)」(主観的な観方)でいいわけがない。見所(観客の側)から見る姿は、 演者を客体化して見る「離見(りけん)」である。「離見の見」は、演者の主観意識と見所から自己を見る意識とを同時に もつことであり、それが成しとげられれば、観客と同じ心を共有して見る「見所同心に見」となる。 》 202頁

《 ところが観世寿夫の眼は、我見でないのはもちろんであるが、観客である我々のもとにあるともいえない。身心不定 というか、視点がどこにあるか定めがたく、しいていえば彼我の中間にあるようにみえる。それがまことに不思議な存在感を あたえるのである。 》 202頁

《 眼の焦点を遠くにおき、心が近くの定かなものにとらわれることをさけ、心を無にするのである。 》 204頁

 味戸ケイコさんの少女、女性の眼差しだ。

《 面は体の全面にひろがって体そのものをも面化し、前後左右を失わせるほどの強烈な呪力をもっているのである。 》  209頁

 北一明のデスマスクを思う。

 知人が春に出版する予定の歌集のゲラ刷りが届く。ニ百頁ほど、十年間の485首を読む。歌集に挟む栞に載せる一文を 依頼されている。これが最後の歌集と伝えられているので、身が引き締まる思い。気になる短歌をメモ。表紙にはなんと 深沢幸雄の銅版画を使用。うーむ。1961年の単色(黒)作品を使うとは。この銅版画を枕に書き出そうと思う。沈思黙考。 しばし休憩。

 再び『現代美術の地平』へ。「未知への疾走──寺山修司追悼──」を読む。寺山のことばが紹介されている。

《 「ある連続した現実原則に、異物をさしはさむことによって、その原則にべつの転回点を与える」 》

 おお、上記の短歌の構造だ。こんなところにいいアイデアが隠れていた。

 ネットの見聞。

《 散逸している明治・大正期の彩色木版口絵を後世に残したい!  》 クラウドファンディング
 https://readyfor.jp/projects/kuchie2500

《 トルコに限らず、ロシアもイランも、あるいはサウジも、最近の中東情勢を動かす中心となっている国々はみな、 経済的には失速している。そこに危うさを感じる。 》 神田大介
 https://twitter.com/kanda_daisuke/status/821773526260731904

 日本も。

《 「人が育つのは、やっぱり新しいことを苦労してやっているとき。」確かにそうだな。 》 木下斉
 https://twitter.com/shoutengai/status/821716937868591104

《 共謀罪とは 》 なすこ
 https://twitter.com/nasukoB/status/821690022541684736

 ネットの拾いもの。

《 「ロボットとのセックスには多くのメリットがある。病気に感染する心配がないので安全でもあり、主導権を握ることもできる」  》 【AFP=時事】
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170117-00000026-jij_afp-sctch&p=1