「ひと筆、一刷毛」

 昨晩早めに風呂へ入り、湯上がりの心地よい気分で、昨日デザイナーの内野まゆみさんから恵まれた出来たての新作、三センチ四方の タイルにさっと描かれた草花の絵を鑑賞。じつに瑞々しい。一つくれると言うので悩んで選んだ一点が、一番いいと、褒められた。 その言葉を信じる。たくさん描いて近々売り出すという。楽しみ。

 本を開くのも億劫な疲れた時には、北一明の焼きものを手にする。北一明というと耀変茶碗がまず浮かぶが、茶碗や盃の呉須の字が、 また格別にいい。その筆さばきには舌を巻く。小さな盃の見込み(内側)の墨痕鮮やかな漢詩の目を瞠る筆さばき。濃い呉須で書くのは 誤魔化すため、と北は言う。彼は筆触を辿ることができる薄い呉須で書く。まるで平らな紙に書いているような筆跡。見れば見るほど 惚れ惚れする。人物や花鳥、景色を描いた染め付けには、私は惹かれない。筆触鮮やかな作品に惹かれる。厚化粧よりも薄化粧。ひと筆の、 一刷毛の鮮やかな軌跡〜奇蹟。それは絵画の線描、描線に通じる。そのひと筆、一刷毛にこそ、作家の真価が露わになる。

 手に余る大きな美術品は、要らない。掌に乗るような小さな美術品に、最近は惹かれる。重厚長大から軽薄短小へ、とはよくいった。 小さくても画格の大きいもの、品格のあるものしか欲しくない。ま、物欲が弱くなったのか、あるいは目が肥えてしまったのか。
 しかし、画格、品格ほど定義の難しいことはない。定義すればそこから本質的なことが洩れてしまう。言葉の限界を感じる。結局、 わかる人にはワカル、というしかない美術、芸術の世界。

 午前、源兵衛川中流、三石神社周辺の堆積土砂の撤去作業の打ち合わせに同席。
 午後、小雨の中、昨日ふれた「やまだひろなが作陶展」へ。売り子のお手伝い。
 http://my.shadowcity.jp/2017/03/post-10714.html

 ネット、いろいろ。

《 存在しないものの知覚はいかにして可能かという問いは、逆に、存在するものの知覚はそもそもいかにして可能かという問いと セットになっているし、さらには私はそもそも存在するものを知覚しているのかという問いへと接続する。これはなかなか深い問題だ。 もちろんその先には存在とは何かが控えている。 》  森岡正博
 https://twitter.com/Sukuitohananika/status/837056316388474884

《 現金賄賂を送るのが教育勅語精神というわけか。 》 森岡正博
 https://twitter.com/Sukuitohananika/status/837043551586299905

《 覚えてるか?ほんの六年前までは、帳簿の日付がどうこうで検察まで動いてたんだぜ。
  今や、贈収賄の現場撮影されても、証拠をドリルでいん滅しても、白紙領収書何枚切っても、国有地をタダで払い下げても、 何のお咎めもないんだぞ。 》 SUZUKI Hironobu
 https://twitter.com/s_hironobu/status/836936310895996928