内田樹『日本辺境論』新潮新書2009年4刷は、腰を据えて考えさせる論述が何箇所もある。一晩たってから反芻。その一つ。 「 III 『機の思想』」から。
《 「石火之機」とは「間髪を容れず」ということです。 》 172頁
《 武道の目的は「敵に勝つこと」ではありません。「敵を作らないこと」です。 》 173頁
《 右手と左手を打ち合わせて拍手するとき、共身体から枝分かれしている限り、右手の時間意識と左手の時間意識が 「ずれる」ということはありえない。そこにはまったく同じ律動で時間が流れているからです。これが「石火之機」、 「間髪を容れず」ということです。
哲学的な他者論の枠組みで言っても、話は同じです。主体と他者が本質的な意味で「出会う」ためには、主体概念 そのものを書き換えなければならない。 》 179頁
《 私たちはつねに「呼びかけられるもの」として世界に出現し、「呼びかけるもの」として、「場を主宰する主体」として、 私は何をするのかという問いが意識に前景化することは決してありません。すでになされた事実にどう対応するか、 それだけが問題であって、自分が事実を創出する側に立って考えることができない。この問いそのものがきわだって辺境的 であるということに私たちは気づきません。でも、そうなんです。欧米の人は(ユダヤ人を例外として)こんなふうに 時間の問題を考えたりしない。武道と禅家が思いついたのは、つねに「起源に遅れる」という宿命を負わされたものが、 それにもかかわらず「今ここで一気に」必要な霊的深度に達するためには、主体概念を改鋳(かいちゅう)し、それによって 時間をたわめてみせるという大技を繰り出すしかないというソリューションでした。それが「機」という、西洋の哲学用語には おそらく翻訳不能の特異な時間概念です。「機」は私たちに課せられたローカルな宿題の答えるために案出されたものだった。 私はそう考えています。 》 187頁
《 「機の思想」が当然すぎて言い落しているのは、私たちはどこで出会うのか、どこが「機」の現象が生成する当の場なのかを、 あらかじめ知っているということです。私はそれを「先駆的に知っていること」というふうに術語化してみたいと思います。 それはどのような能力なのか。 》 189頁
術語化……。中村雄二郎のいう述語的世界を連想させる。親近性を感じるが、今はまだ感じるのみ。言語化できるだろうか。 機が熟するのを待つ、か。機を失し熟し過ぎて落下、の予感。
降ったり止んだりの一日。春雨じゃ、と傘はささずに外出。でも途中で傘を開く。自転車ではすーっと通り過ぎる細い道を ゆっくり歩く。春雨でなければ目に入らぬ街並み。知らぬ間に様変わりしている街並み。田町駅のそば、某会社の事務室の裏の コンクリート+板の半世紀前に廃れたゴミ箱。屋根の下にあるからトタンの蓋が錆びていない。こんな状態の良いゴミ箱はないから 大事に、と会社の人に言ったことが守られている。
ネット、いろいろ。
《 本当に面白い書物のなかの本当に面白い部分は、最初に読んだときには、全く面白くなかったり、心に何も響いてこないことが多い。 優れた書物の優れた洞察は、我々の既存の思考の枠組の全体に変更を迫るものだから、その枠組を前提にしているかぎりにおいては、 一見魅力的なものとは映らないものなのだ。 》 山本芳久
https://twitter.com/201yos1/status/850182694126231552
《 第3回「役に立たない雑学」選手権の結果を発表します。
最優秀賞
『トイレットペーパーの「シングル」と「ダブル」の違いは紙一重』
金賞
『悪事に 手を染めるが
改心して 洗うのは足』
高齢の住職賞
『牡蠣フライと犠牲フライは全然違う』
です。おめでとうございます! 》 坊主
https://twitter.com/bozu_108/status/850275166877646848
《 「テロ等準備罪」などといいながら,法案の中には、テロのための条文は1か条も存在していない。
なのに,「テロ等準備罪」という,突然言い始めた政府の言い訳を,いとも簡単に支持してしまう単純な あ・な・た(^_^) 》 岡口基一
https://twitter.com/okaguchik/status/850512388436643840
《 「新しくないのかもしれないけど、私たちにとっては新しいものなんですよ」 》 女子大生に広がる「写ルンです」ブーム、 その理由は
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170408-00010000-bfj-soci&p=2
《 「しゃるんです」 》