『聖家族 上』

 古川日出男『聖家族(上)』新潮文庫2014年初版を読んだ。長い長い物語の前半だ。鍛錬して殺人兵器にまで肉体を改造した 狗塚牛一郎、狗塚羊次郎兄弟を軸に東北地方を舞台に物語は進む。冒頭、弟の狗塚羊次郎は殺人犯として拘置所で死刑を待つ。 舞台と人物が交錯し、どこへ引っ張っていかれるのか、わからぬままに物語は揺れ、広がり、飛ぶ。羊次郎が警察に確保され、 牛一郎はからくも逃げおせるところで下巻へ。はてさてどこへ収斂するのか、どこへ行き着くのか。先は知れない。五里霧中。

 「生きた 死んだ」。墓碑銘があれば、そんな文言にしてほしい。美術家と違って遺るモノはない。ただ生きた。それだけ。 大多数の一般人がそうであるように。「生きた 死んだ」。そんな人生を歩みたい。といってあと何年息災に生きられるか。 佐藤愛子『九十歳。何がめでたい』小学館、手にしたことはないがなんとなくよく共感。先が見えてから所有欲はずいぶん減った。 つげ忠男の絵やポスターがネットで販売されているが、以前なら即動いただろう食指は、化石のように動かない。
 http://www.offnote.org/SHOP/g15750/list.html
 狼の伝説 無頼漢リュウ/ つげ忠男(1975年) 。
 http://www.offnote.org/SHOP/fou-201.html
 古川日出男『聖家族』の狗塚羊次郎を連想させる。以前だったら買っただろう。翻って考えるに、最近は自分が買うしかない、 と思わせる作品にめったに出合わない。先だって自宅に届いた白砂勝敏さんのセメント・小石の作品はそんな稀なるもの。私の没後、 評価されてくるという予感。まあ、私の保存している殆どのものが、後年評価されるだろうもの。あるいは全く評価に値しないかも。 それでいいのだ。私一人でも評価し、作品を購入することで、作り手は意欲が湧き、生活費の足しになる。評価だけではだめ。

 朝、昨日抜きそこなったものと他で見つけたヒメツルソバを抜く。石垣の高いところの一株は、脚立でないと届かない。 きょうは見送り。一汗。
 午後、北一明の茶碗を鑑賞。晩年故郷の飯田市へ帰った北は、そこで人知れず亡くなった。その事情は、私には確かめようがない。 記念館を作る運動の経過も知るすべがない。作品は遺る。
 https://www.hosei.ac.jp/gaiyo/socho/diary/2015/150501.html
 http://www.minamishinshu.co.jp/center/series/023.PDF
 いかんいかん、こんな時にはクララ・ヌネスを聴く。
 https://www.youtube.com/watch?v=Yw5L5exltgU&feature=fvw
 そしてコーヒー・ルンバ。
 https://www.youtube.com/watch?v=CHq2eLn9q0M
 コーヒー、もう一杯。酒入れて。

 ネット、いろいろ。

《 死んだあとにもう何もしなくていいんだと安堵する時間より、死んだあとに「死んだなう」 とツイートして反応を確認する時間がほしい。 》 銀聯カード
 https://twitter.com/Motoharu_dayo/status/858593533103554560

《 「連休に何の予定もない」を「遺体に何の予定もない」に空見。 》 T屈男
 https://twitter.com/taikutumasa/status/858593381118640129