『微光のなかの宇宙』

 司馬遼太郎『微光のなかの宇宙 私の美術観』中公文庫1991年初版、前半を読んだ。初っ端の「裸眼で」に驚嘆。司馬の小説は興味がなく 一篇も読んでいない。著作ではこれが初めて。軽い気持ちで手にしたのだが、「裸眼で」を一読、彼の美術観に多いに共感、深く賛同。 わからないものだ。セザンヌへの視線。

《 セザンヌにおける理論は、自然をみつめてゆくとそこに幾何学的組みあわせを感じる、としただけであったのに、かれより遅くやってきた 冒険者は、逆に幾何学的立方体を通して自然を見、ついには幾何学的立方体のほうに自然を真似させようと試みた。さらには自然と断絶して タブローの中の芸術を、尋常(ただ)の認識世界から独立させるにいたる。ブラックやピカソといった天才がそれをやり、その成功によって、 その画風──同時に理論──の追随者が出た。 》 20頁

《 あらためて思わせられたのは、画論というのはそれを開創したその画家だけに通用するもので、他人の理論や他の社会が生んだ様式の 追随者になるというのは、その人の芸術だけでなく人生をも無意味にしてしまうのではないかと激しくおもった。 》 28頁

《 人間を団扇のように、物として、形として描くことが近代絵画なのか。私は多くの日本の近代絵画の受洗者たち──近代日本画もふくめて ──を、このとき、理不尽なほどのはげしいことばでののしりたかった。 》 30-31頁

《 繰りかえしいうようだが、十九世紀以後の美術は理論の虚喝が多すぎた。 》 39頁

 続く空海への論考も読ませる。

《 日本の場合、思想ということにおける体系化の課題に気づいた人物が、すくなくとも二人はいた。ひとりが壮齢の最澄であり、ひとりが まだ若かった空海である。かれらが、体系を欲し、かつそれをやりとげたのは、歴史のなかの劇的なものといっていい。 》 「密教の誕生と 密教美術」 59頁

《 ただ空海の巨大さは、彼が真言密教の輸入者でありながら、密教がインドや中国ではなお十分に体系化されていなかったのを、彼が、 思想として完璧そのものといっていいほどに結晶化したことであった。(中略)その完璧性のために、彼の真言密教は思想としても宗教としても、 空海一代において終り、その後の発展がなかった。 》 「わが空海」 97-98頁

 ネット、いろいろ。

《 波の中身ってこーなってんのかすげえ 》 しゃるず(夏)
 https://twitter.com/QQOCC/status/891545683928297472

《 高松塚古墳にもキトラ古墳にも、石室の天井に星座が描かれていて、それに金で太陽が、銀で月も描かれていて、つまり宇宙がある。 古墳って、生前の権勢や財力を誇示するものだったが、それら飛鳥時代の古墳はその性格が変質していて、死と宇宙をつなぐものとなってる。 それは、たぶん絵画の起源に近い。 》 布施英利(ふせ ひでと)
 https://twitter.com/fusehideto/status/892129658761658368

《 蔵書を処分された方の本を読み、嘆きの深さに驚きました。実は最近、同じ位の冊数を整理し、もちろん寂しい気持ちもあるけれども、 古本市場に本を戻せば曾ての自分と同様、次の所蔵者が恩恵を蒙るのです。考え方は人それぞれでしょうが、コレクションの存続だけが 本を活かす道ではないと思っています。 》 初版道
 https://twitter.com/signbonbon/status/891980563959095302

《 なぜ、アメリカでは障害者を「弱者」と呼ばないのか? 》 佐藤由美子 HUFFPOST
http://www.huffingtonpost.jp/yumiko-sato/handicap-difference-japan-usa_b_17633392.html?ncid=engmodushpmg00000004

《 ある中学校が「うなじに男子が欲情するから」との理由で女子のポニーテールを禁止したという話が流れてきて、一瞬 「そんなことを理由にし始めたら最終的には全身タイツで身体を覆うしかなくなるんじゃないか」と思ったんだけど、考えたら全身タイツにも 欲情する人がいそうなので人間の性欲は罪深い。 》 まことぴと
 https://twitter.com/makotopic/status/891877827628343296

《 三種の仁義 》 鯨統一郎
 https://twitter.com/kujira1016/status/892208936517947392