「エリュアール論」

 先月30日に続いて大岡信『詩人の設計図』書肆ユリイカ1958年を、『大岡信著作集 第四巻』青土社1977年初版で読み進める。
 「立原道造論」は、さすがに深い読解だが、彼の詩は未読で、私にはそれ以上の感興はなかった。続く「エリュアール論」は、これまた彼の詩は 未読でありながらじつに刺激に満ちた論述で、絵画への連想が激しく働いた。エリュアールの訳詩集は本棚にあるので読んでみたくなった。

《 一篇の詩は、詩人がその全能力をかけて記憶の底に探しあてるいくつかの言葉によって形づくられる。然し、詩そのものは些かもそうした詩人の 仕事の経過を露見させてはならない。 》

《 一行の詩句が或る人間の或る時期を代弁するということは、何といおうと素晴らしいことである。それはその句がその人間の夢を容れるに充分だった ということを示すと同時に、その人間の夢によってどのようにも豊かにされうる柔軟性をもっていたことを示すからだ。すでにそれは単なる言葉ではない。  》

《 新しい自然ではなくて、新しい光をあえてられた自然……。奇妙なことだが、日本のモダンな詩人達に新しい詩の先駆者として映ったエリュアールが、 ぼくに、新しい詩などない、新しい光をあてられた詩があるだけだ、と教えてくれたのだ。 》

《 希望という言葉ほどむなしいものはない。希望は、希望という抽象的な言葉の外にあるものだから。 》

《 彼は人生を生きることは、決して人生から抽象された教義の上に寝そべることではなく、人生の厚みそのものの中に生き生きとした感受性を以て 常に新しく突き入ることであるという信念を、詩の美学にも実践したにすぎない。 》

《 詩人は霊感をうける、というよりも、詩人は言葉の効果を測る、といった方が遙かに詩人の定義としては正しい。 》

《 その音楽性は、勿論、音楽の音とかリズムとかによってもたらされるものとは異なる。それはいわば、事物のもっている真実性、影像とかイデーの もっている真実性から否応なしにぼくたちにつたわってくる音楽性である。存在すること自体がすでにひとつの歌でありうる、とエリュアールの詩が教えている。  》

《 この歌はもはや詩人の歌ではない。自然そのものの共鳴である。エリュアールはこの詩「齢もなく」を収めている詩集を『自然の流れ』と題している。  》

 共鳴……。

《 つまり、音楽的な陶酔による混沌の合一状態よりも、絵画的な、多面的な結合状態の核をなしている部分だといえよう。ぼくは、彼の好きな理性という 言葉を思い出す。 》

《 エリュアール自身、「詩人とは霊感を受ける者であるよりも、遙かに霊感を与える者である」と書いている。霊感を受けた状態をいかに説明しようとも、 読者はそこから霊感を与えられることはない。必要なのは、常に詩が霊感の源泉となることだ。霊感に先立つもの、霊感の結果ではなく原因であるものの 表現こそ、詩のめざすべきものなのだ。これがエリュアールの言葉の意味である。そしておそらく、これこそロートレアモンの有名な「詩は万人によって 書かれねばならぬ」という言葉に対応すべき言葉であろう。 》

 ふう。どこまで理解できたか。いや、理解なんて言葉を使えるほどわかってはいない。一読では私の理解力が追いつかない。そんな本ばかりだなあ。

 旅行会社クラブツーリズムの内定者六十人余の研修のお手伝い。、源兵衛川を歩き、水に入り、カワセミを見、三島を体感。質の良い人たちだ。

 ネット、いろいろ。

《 日本、6大会連続のW杯出場決定!浅野&井手口弾で豪州からW杯予選初勝利 》

 昨夜のサッカー記事の見出し。口弾てどんなのだろうと思った、サッカー知らず。

《 展覧会の感想、「よかった」「必見」は禁止にしないか。なんにも言わずに丸投げしているだけの言葉。 》 中島 智
 https://twitter.com/nakashima001/status/902753814394134529

《 何がショックかって、ジュリアナダンスで高校の全国大会で準優勝した大阪府登美丘高校ダンス部の女子生徒、レポーターから 「衣装はどうやって準備したの?」と聞かれて、「おばあちゃんから貰いました」

  お ば あ ち ゃ ん か ら 貰 い ま し た 》 やれやれさん。
 https://twitter.com/5tnd_osaki/status/903295232233504768

《 「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」 》