椹木野衣『震美術論』美術出版社2017年初版、3,4,5章「日本・列島・美術(前・中・後編)」を読んだ。
《私たちが抱く「悪い場所」へのこのゆるやかな肯定は、おそらくは、日本列島に住む一億を超す民の生身や無意識に、ゆるゆると浸透している。つまり 意志ではない。おそらくは、それこそ私たちが「美」と呼んできたものの正体なのだろう。 》 88頁
《 そこでは、忘れられたからこそ甚大な被災が繰り返される悲劇と、繰り返されるからこそいっそう強く忘れられなければならなかった記憶が、数珠繋ぎの ように結びつき、蛇尾を食らう蛇頭のごとき悪循環(ウロボロス)をなしている。 》128頁
《 その現実を直視することもなく、都合よく見ない振りをして芸術の自立性など説いても、そんなものはたんなる教条主義にすぎない。古名をなきものにするのと 同様、結局、同じ「災い=破綻」と遭遇してしまうのを免れない。借りもので都合よく概念だけ刷新しようと、現実(リアル)はどこまでも変わらないのだから。 》 131頁
《 さらに言えば、今回述べてきたような惑星や宇宙という大気圏外への想像力までを含み、特性上どうしても「想定内」で自足してしまいがちな美術史の潜在的な 閉塞を、わずかばかりでも人類史へと開き、内から払拭するための芸術の存在理由に向けての問いでもある。 》 143頁
《 しかし、だからこそ私たちはこの時系列の混乱を逆手にとって、私たちの日本列島に固有の表現を紡ぎ出す必要がある。それは「事後」が「事前」に、「事前」が 「事後」にひっくり返る「転覆の美術」(蛇頭が蛇尾であるようなウロボロスの芸術)ということになるだろう。あの八木地区の石碑が、三陸海岸に並ぶ古びた 石碑群が、遠く過ぎ去った昔を伝えるのではなく、実は差し迫った近未来を先取りしていたように。 》 148頁
《 私たちは、過去の創作に震災列島という素性から光を当て、新たな意義を探し出す必要がある。 》 163頁
《 日本列島では、戦乱と災害は、その本性においてそのつど突合せながら考察されるべきなのである。従来の歴史は、それが「歴史」となるために、そうした発想を 欠いている。そのように思えてならない。 》 174頁
なんと凄い着眼点、発想だろう。先に読んだ清水高志『実在への殺到 Real Rush』では転倒が言われ、ここでは転覆が言われる。時代の変わり目か。
ネット、いろいろ。
《 鮎川哲也の「アリバイ崩し」やら、アシモフの「ファウンデーションの彼方へ」を読了したのだか、全部再読なのに、全部見事に忘れていて、 全部初読のように楽しめてしまった。やばい。アシモフや鮎川哲也の傑作群が今後も丸ごと初読のように楽しめるのであれば、新刊本要らんやん。 》 猟奇の鉄人
https://twitter.com/kashibaTIM/status/910260867517751296
そうなんだよなあ。
《 用事のついでに渋谷でベルギー奇想の系譜展を見た。ボス工房のものが一点、ブリューゲル父の版画がたくさんあった。いちばんよかったのはルーベンスの 版画と、アンソールの油彩。版画は彫師の力量が出来を決めるのだなあと思った。いちばんくだらないのは現代のコンテンポラリーアート。 》 森岡正博
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/910046558908846081
上野の西洋美術館の絵画の常設展示は制作年代順。順に観てゆくと、近代になって画家の眼差しの奥行きも深さも浅くなる。
《 物理学70の不思議 》 日本物理学会
http://www.jps.or.jp/books/gakkaishi/70wonders.php
《 人類は三種類に分かれる。安倍政権を支持しない近現代史に詳しい奴と、安倍政権を支持しない近現代史に詳しくない奴と、 安倍政権を支持する近現代史に詳しくない奴だ。 》 津原泰水
https://twitter.com/tsuharayasumi/status/910237771737964544