足下から搖ぎ出す

 一昨日読了した椹木野衣『震美術論』美術出版社2017年初版。”現場を踏んでいるからだろう、深い危機意識に心打たれた。”と記したが、それで連想したのが、 三木清『哲学入門』岩波新書昭和15年初版、昭和41年43刷。高校生の時に買って読んだ。途中で挫折。なにせ旧漢字旧仮名遣い。最初のほうには鉛筆で傍線。

《 哲學は現實の中から生れる。 》 1頁

《 現實は我々に對してあるといふよりも、その中に我々があるのである。 》 1頁

 今も記憶に鮮やかな一文は。

《 しかるに現實が足下から搖ぎ出すのを覺えるとき、基底の危機といふものから哲學は生れてくる。 》 2頁

 足下から搖ぎ出す。この言葉がその後の人生においてことあるごとにふっと浮かんだ。四十年あまり前、味戸ケイコさんの絵に雑誌『終末から』で出合った時も、 足下が揺らぐような、くらっくらっする体感を感じた。ある人はそれを心が震えると表現する。椹木野衣『震美術論』からも同様な印象を受けた。味戸ケイコさん からは危機感、『震美術論』からは危機意識と、少し違うが。それはおき。顧みれば味戸さんの初期の絵によって、精神の危機、心の病からギリギリのところで 墜落を免れることができた。低空飛行をなんとか保つことができ、無事日常へ帰還できた。もし、味戸さんの絵に出合わなかったら……考えたくない。そんな経験から 私と同じような心理状態の人のお役に立てば、とK美術館を思い立った。こんな回想を記したのも、『震美術論』のこの一節から。

《 絶え間なく足もとを揺らせながら、そのたびごとに流浪し、時には人生においてもっとも大切な故郷や最愛の身内を失い、家を流され、望むことなく開いて しまった埋めがたい心の陥没を、それでも埋め続けようとする過剰な衝迫と終着点のない行為から、日本列島の美術は生まれたのではないだろうか。誤解を恐れずに 言えば、有形的な文化財的価値よりも、鎮魂と慰霊というあてどなき行為の無辺性によってこそ、不定形に紡がれてきたのではないか、そしてこれからも紡ぎ続け られていくのではないか、そんなふうに思えてくるのである。 》 389-390頁

 そして思う。K美術館での展示作品を。味戸ケイコ、北一明、上條陽子、深澤幸雄……。彼らの作品は、鎮魂と慰霊につながる。それらを暗いと嫌う人たちがいた。 そう言う人たちは、表向きは画面が明るくないからという理由だが、実は自身の隠れた内面を気づかせる作用をそれらの絵がもっているから直視したくないのだと 思う。画面の色調は暗いけれども、陰気、陰湿といった気配は全くない。それらの絵は、安定した日常感覚を一気に転倒させる力をもっている。お盆お彼岸といった 死者の霊を思う特別な日が不意に出現したような、足下から搖ぎ出す感覚。

 ネット、いろいろ。

《 現代短歌文庫『松平修文歌集』がじわじわ売れている。新刊『トゥオネラ』が評判だから、さかのぼって読みたい人が多いのかも。 新しい読者獲得という感じでうれしい。
  『トゥオネラ』は、「日々のクオリア」でも取り上げられました。 》 タカハシ@砂子屋書房
 https://twitter.com/takahashi_suna/status/911111199911059456

《 「観光客」と「家族」を繋ぐはずだった「書かれざる章」とは―東浩紀さん『ゲンロン0 観光客の哲学』ブクログ大賞受賞インタビュー前編 》 ブクログ通信
 https://hon.booklog.jp/interview/azuma-hiroki-20170920?utm_content=bufferb8396&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer

《 日本に巨大な地震や火山噴火、原発事故が起きた時、台湾や朝鮮半島に難民として渡らざるをえない状況になりえるって想像力もないんだな。 》 猫屋
 https://twitter.com/nekoya_3/status/911612293846376448

《 ライヴや芝居なんかの告知で「18時〜」と書いてあると反射的に「音楽浴!」と頭のなかで応えてしまうのは、中学生ぐらいからの癖。 》 いかふえ
 https://twitter.com/ikafue/status/911620023377989632

 海野十三『十八時の音楽浴』。