『明治の文化』四

 色川大吉『明治の文化』岩波書店1970年初版を少し読み進める。

《 もしも自由民権運動が、少なくとももう十数年間、挫折することなくもちこたえられていたとしたら、おそらく日本の知識階級の成立のしかたや体質は まったく違ったものになっていたであろう。(中略)じっさいには民権運動は早期に流産し、草の根からの文化の創造の大勢は大きく阻まれた。 》 「 VI 明治文化の担い手」 212頁

《 村民はしだいに自分の村に誇りを失ない、立身出世は都会に出てするものだという投機的精神にとらえられていった。それにくわえて、中世以来の素朴な 「都鄙雅俗(とひがぞく)」の民衆感情がゆり起こされ、都会文化中心思想を強めていったのである。 》 「 VI 明治文化の担い手」 213頁

《 これらの人びとは一八八○年─九○年代のそれぞれの分野で独自な先駆的な役割をはたすが、(中略)ただ、この知識階級は、先にものべたように明治維新自由民権運動によって育てられた新しい地方知識人を主流としたものではない。むしろ農村からの都市への逃亡者、立身出世のための移住者が、地方城下町出身の 知識人と共に、東京を舞台とした都市知識人のプールに合流したところに形成されたものである。 》 「 VI 明治文化の担い手」 215頁

《 一八九四─九五年の日清戦争、一九○○年の北京出兵、一九○四─○五年の日露戦争と、日本が対外戦争にのりだしてゆくと、知識人の思想にも、民衆意識の なかにもさまざまな変化が生じた。 》 「 VI 明治文化の担い手」 226

《 日本が帝国主義の覇道を歩みだしたということは、日本の知識人の思想の深部にもこのような地すべり的な変化をひきおこしたのである。ただ、多くの知識人が この隠微な転換に気づいていなかったにすぎない。 》 「 VI 明治文化の担い手」 229頁

《 日本のプロレタリアートはこうした悲惨な歴史を背負って形成された。そして、この”悲惨”を解決する歴史的役割を託されて大都会や工場・鉱山にと入って いった。これまで、その実像の形成過程は研究されてきたが、その意識の形成過程はほとんど解明されていない。 》 「 VII 非文化的状況と知識人」 249-250頁

《 (北村)透谷がこれを書いた一八九○年代にはすでに一八八○年代の農村の活況はなくなっていた。 》 「 VII 非文化的状況と知識人」 258頁

《 一九○○年代は、日本が帝国主義戦争にのりだすことによっていっそう農業危機を深めた。 》 「 VII 非文化的状況と知識人」 259頁

 ネット、いろいろ。

《 ちくしょう。栓を閉じないで風呂にお湯を入れてしまっていた。。 》 清水高志
 https://twitter.com/omnivalence/status/924999554428047363

《 それでは次のニュースです。

  2013年に多数目撃例があった「デフレ脱却最優先」ですが、近年目撃例が少なくなっており、絶滅危惧種に指定しようとする動きがあるようです。

  レポート歴30年の「財政再建待ったなし」さーん、現地の様子はどうですか? 》

《 これは急に寒くなったせいで秋物が売れなかった、でいけるな 》