『メイキング』

 ティム・インゴルド『メイキング  人類学・考古学・芸術・建築』左右社2017年初版を少し読んだ。著者は「四つのA」という題をまず考えたという。すなわち、 Anthropology,Archeology,Art,Architecture 。

《 要するに本書のいわんとしているのは、つくることは作者と素材のあいだの相互作用(コレスポンダンス)であり、芸術と建築同様、人類学と考古学の分野でも このことはあてはまるということだ。 》 「序文、および謝辞」 9頁

《 世界から恩恵を受けているものを、そこから抽出した「データ」に変換することで、その存在から学べるものをわたしたちは消し去ってしまう。それは、知識が 物事の外側で再構築されるものだと規定することを意味する。 》 「第一章 内側から知ること」 23頁

《 それが導くところへみずからを開き、つき従っていく状態にあるという意味での実験性である。実際にやってみて、何が起きるのかを試す。それゆえ、探求の 技術はリアルタイムで前に進んでいく。次に何が起きるのかを見るために、自分の手が触れるものの生に随伴されて、両者が属する世界を巻き込みながら物事を 試すのだ。 》 「第一章 内側から知ること」 26-27頁

 白砂勝敏さんの木彫椅子への拙文「見出された、かたち」を連想。著者は同じことをより精確に語っているような。拙文の買いかぶりか。
 http://shirasuna-k.com/gallery-2/wood-sculptures-chair/

《 それは、職人の細部まで気配りされた注意力や、その熟練した手つきが鏝の先端でおこなう、いきいきとした素材とのやり取りである。(中略)発掘という 実践のなかで、考古学者は切断面に沿って「それがどこへつづくのか、どこへ導こうとしているのか」というふうに作業を進めることを義務づけられている。 》  「第一章 内側から知ること」 36頁

 昨日の知層を掘り抜いて地層へ至る文学に通じる。といったら、また買いかぶりか。

《 みずから生成変化することがなければ、わたしの講義は──他のあらゆる授業も──価値がなくなる。 》 「第一章 内側から知ること」 42頁

 秋晴れのもと、知人夫婦の運転で写真展を見たり、白砂勝敏さんのアトリエを訪問したり。夕方帰宅。意外に疲れた。
 三日連続で川へ入って岸辺のヒメツルソバを抜いたが、長靴に水が入らぬように足場を慎重に定め、それから態勢を崩さぬように草を抜く。これが効いてきた。 体の動きがぎこちない。普段使わない筋肉を使ったせいだろう。ま、孤独な作業だ。帰宅後布団で一休み。

 ネット、いろいろ。

《 アンソロジーは何でも作れる。
  『橋の出てくる小説』『散歩小説集』『犬猫以外動物小説小説集』『壁の小説』とか『傲慢小説集』。
  あと友人たちへのインタビュー集を作りたい。有名無名関係なく。休みなにしてんの? とか訊く。
  世にアンソロジーの種はつきまじ。 》 西崎憲
 https://twitter.com/ken_nishizaki/status/926704404408889345

 昭和の時代、少女、紫、白鳥テーマにした詩歌のアンソロジーを構想した。あまりに多くて断念。

《 蕪村は「孤独」を「狐独」と誤字していた。それは蕪村がまずしい境遇で生まれ育った事実を暗示する。一方当時差別されていた存在である「狐」 をモチーフとする句も多い。それは人間以下の狐のような境遇の人々と深く関わる。非業の死者と関係する「狐火」の句も。小西愛之助さんの著者から。 》  河津聖恵
 https://twitter.com/kiyoekawazu/status/926114915332403200

《 蕪村は享保の大飢饉から逃れて江戸へ行き、天明の大飢饉のさなかに没する。その半生で、野非人や方外(僧)の苦難を体験する。このことで「蕪村は底辺より ものを見る眼を会得したのであり、その眼(視点)から、蕪村の芸術を根底より見つめなおすべき時がきているのではないか、と私は思う」(小西氏) 》  河津聖恵
 https://twitter.com/kiyoekawazu/status/926120074640949248

《 久野雅司『足利義昭織田信長』(戎光祥出版、2017)のあとがき、途中までは本の内容や刊行経緯を書いたオーソドックスなものだが、 最後に突然35年来のBOOWY氷室京介のファンであることが告白され、学問の姿勢と氷室京介の精神の共通性を説き、氷室京介に謝辞を捧げて締めくくられる。 》  ナタネ油
 https://twitter.com/nknatane/status/926085850483400704