『動きすぎてはいけない』三

 千葉雅也『動きすぎてはいけない』河出文庫2017年初版を少し読んだ。匍匐前進みたいに、少ししか読み進めない。

《 逆に、ヒュームとドゥルーズは、関係を事物の本性に依存させないために、事物を〈主体にとって総合された現象=表象〉ではなくさせる。総合性をそなえた 主体の側から、あらゆる関係を解放する──私たち=主体の事情ではなく、事物の現前から哲学を再開するのである。 》 「第2章 関係の外在性── ドゥルーズのヒューム主義」 110頁

《 移動すること。コップをテーブルから離してみても、これら二つの項に内的な変化は起こらないという。ドゥルーズは、項を変化させない、項の純粋な移動を 肯定しようとしている。
  場所の関係の変化において、そのままであるのは、「この関係の真の二つの項であるコップの観念とテーブルの観念」である。項=「観念」は、物理的ではない。 なぜなら、物理的な構造は、コップもテーブルも、移動において「変容される」し、それにそもそも、移動されなくても絶えず変容しているからである。 》  「第2章 関係の外在性──ドゥルーズのヒューム主義」 123頁

《 定式化しよう。関係の外在性テーゼは、純粋には、項の何たるかに関係なく、いかなる関係であれ、(i)理由なしに=偶然的に想像されるということ、かつ、 いかなる関係であれ、(ii)無数の他の諸関係から分離されうるということ、を意味している。これは、関係=述語=出来事の論理的なアナーキズムであると 言ってもよい。偶然性と分離、この二点が、外材性の意味である。 》 「第2章 関係の外在性──ドゥルーズのヒューム主義」 125頁

《 ドゥルーズは関係の外在性によって、世界の全体性を否定する。諸関係をいくら連言しても世界の全体にはならないし、世界の決まった全体はないから、 何らかの関係を除去しても「余りが決まらない」。多元論者=経験論者は、部分的な諸関係のみを捉えるという視野狭窄を勧めている。 》  「第2章 関係の外在性──ドゥルーズのヒューム主義」 126頁

《 いずれにしても、恩寵の幸福感は、関係の外在性において半面でしかあるまい。関係の外在性は、絶対に非意味的な、偶然性の極みだからである。 》  「第2章 関係の外在性──ドゥルーズのヒューム主義」 128頁

《 ドゥルーズガタリは、概念の創造こそ哲学の定義であるとしている。 》 「第2章 関係の外在性──ドゥルーズのヒューム主義」 156頁

 明解な論述で難解な論題を腑分けしていく手腕にはただ感嘆するのみである。が、感嘆するだけで、門外漢には理解にはほど遠い。しかし、面白い。

 朝、昨日見つけてしまった源兵衛川中流部のヒメツルソバを抜く。ついでに雷井戸でも見つけてしまったヒメツルソバを抜く。ついでに梅花藻の黒いアクを除去。 振り返るとそばの家の奥さんが、一坪ほどの空き地に草を植えている。ご挨拶。植木業者が岸辺の草を機械で刈っている。ヒメツルソバは根から抜かなければ。 帰り道、どこかのレストランの女性だろう、ミントを探している。「刈られちゃうのでなくて」と。ま、先だって出始めた何株かを抜いちゃったからなあ。 「元気がいいからすぐに出ますよ」と慰める。でも、見つけたら抜く。すぐに繁茂してしまうから。帰宅。さほど動いていないのに汗ばんでいる。ふう。

 ネット、いろいろ。

《 僕もこっち系で自炊歴34年。「カゴメ基本のトマトソース」とかも超便利よねー 》 会田誠
 https://twitter.com/makotoaida/status/931309597171822592

 先だってそれを使って豚肉を調理。ソースを少し煮詰め、隣のガスコンロでは豚肉をしゃぶしゃぶ風に茹で、双方を混ぜる。さっぱりしている。胡椒などは好みで。

《 映画『ニッポン無責任時代』の脚本を一読した青島幸男は、物語の骨子がハメットの「血の収穫」であることを、即座に見抜いたという。 》  古本屋ツアー・イン・ジャパン
 http://furuhonya-tour.seesaa.net/article/454925967.html

《  エスカレーターとエレベーター。どっちがどっちかわからなくなるので、助けてください選手権

  最優秀賞
  スカートに気を付けるのがエ「スカ」レーター

  金賞
  残念なことにエレベーターガールはいるが、エスカレーターガールはいない 》 坊主
 https://twitter.com/bozu_108/status/930999570212913152