『動きすぎてはいけない』四

 千葉雅也『動きすぎてはいけない』河出文庫2017年初版を少し読んだ。長年そうかなあ、とモヤモヤしていた疑問符が、靄が薄くなるような記述に突然出合う。 これが嬉しい。本筋よりもそんな記述にぐっとくる。以下、興味を引かれた箇所から。

《 ドゥルーズは、ベルクソンに倣って、矛盾を動力とするヘーゲル弁証法を、そもそも問いの立て方がよくないと批判し、これへの代案として「矛盾にまでは 至らないような」差異の存在論を、ベルクソン主義に立脚しつつ提案したのである。 》 「第3章 存在論ファシズム」 162頁

《 ドゥルーズは、次のように主張する──「つまり、存在とは差異なのであり、不動のものや何でもよいものではない。偽の運動に他ならない相互の矛盾でもない。 存在は、事物の差異それ自体であり、ベルクソンはそれをしばしばニュアンスと呼んでいる」 「第3章 存在論ファシズム」 163頁

《 ドゥルーズ哲学とベルクソン主義は、密につながっているようでいて、小さくない問題を挟んでいる。 》 「第3章 存在論ファシズム」 170頁

《 ドゥルーズは、ハイデガーと同様に、存在それ自体を、最上位の存在者──《善》のイデア、絶対者など──として超越化してはいない。つまり、存在の物象化を 禁じている。一義的な存在は関係的なのであり、それは「と」に他ならない。すべての事物は異なっていながら、在ることの等しさにおいてミニマムに関係している。 このミニマムな関係は、純然たる非意味的接続である、と言えるだろう。一義的な存在は、非意味的接続のメディウムである。 》 「第3章 存在論ファシズム」  180頁

《 先のところでバディウは、一義的な存在=唯一の出来事に、ベルクソン風の生気論性を見ていたのであった。しかしながら、私たちの解釈では、一義的な存在= 唯一の出来事は、連合説から抽出された「と」でもある。厄介なのは、生気論的ホーリズムと「と」の哲学の接続、つまりベルクソンとヒュームをつなぐ「と」なのだ。  》 「第3章 存在論ファシズム」 181頁

《 機能的なまとまりと、非-機能的なまとまり=集積という区別は、相対的でしかない。後者は、一見したところ非-機能的なのであって、「エッフェル塔の頂点から 一メートルと、浜崎あゆみの右眉と、三人の忍者の影」にしても、それらの機能性は発明されるべきことなのである。当然視されている有機的な身体をいったん脱- 機能化し、身体を別のしかたで仕切りなおす=切断し再接続することで、新しい身ぶりを発明するのである。 》 「第3章 存在論ファシズム」 237頁

《 ベーコン的な身体の半端なる歪曲は、「グラフィック」 な脱形態化を節約する、「プラスティック」な変態ではないだろうか。 》 「第3章  存在論ファシズム」 241頁

《 本章の議論は、〈複数的な差異の哲学〉と〈変態する個体化の哲学〉の兼ねそなえこそが、ドゥルーズ(&ガタリ)において核心的であった、という結論に至る のである。 》 「第3章 存在論ファシズム」 243頁

 画家のフランシス・ベーコンへの批評には大いに同感。心理学のラカンの項は、内容が多岐にわたるためと理解を超えたため引用せず。それにしても、一言半句を 詳細に検討し、分析し、組み立て、他の論述と比較検討する作業……好きでなければ、いや好きだけではできないことだろう。何かに突き動かされている。 それは何かを発見または発明する予感の、身震いするワクワク感かもしれない。一連の論述を読解できなくても、そのワクワク感がビリビリと伝わってくる。 密生した林の藪こぎのように 少しずつ休み休み読み進む。

 秋冷。昨夜パジャマを冬物に替えて正解。昼前、食卓をコタツに替える。コタツはいいわあ。出たくなくなる。晩秋か。

 ネット、いろいろ。

《 トーマス・ヘザーウィックは、「これを階段で作られた建物として見た」と、プロジェクトの発表時に語った。  》 坂井直樹のデザインの深読み
 http://sakainaoki.blogspot.jp/2017/11/blog-post.html
 https://www.designboom.com/architecture/thomas-heatherwick-studio-vessel-construction-hudson-yards-new-york-11-14-2017/

 見に行きたくなった。

《 世紀転換期前後のドイツ・ユーゲントシュティールへの問題意識は、氏自身の『ヴォルプスヴェーデふたたび』(筑摩書房、一九八〇年) という著作において鮮明なかたちをとる。比較的論評されることの少ないこの著作こそ、私は氏の代表作といわれるにふさわしいのではないかと感じている。 》  谷川握「種村季弘マニエリスム美術」
 https://allreviews.jp/column/611?page=2

 「ヴォルプスヴェーデへ行きたくなりました」と種村氏に言ったら、おもしろくないところですよ、といった返事がきた。

《 力は入れるものではなく出すもの。感情は込めるものではなく掻き立てるもの。感動は目的ではなく結果。音楽の本質は音以外にある。 》  DDC_violoncellista
 https://twitter.com/DDC_violoncelli/status/931077722398322689

《 広く人々の営み/プロジェクトにアート(技芸)を観ていれば「アートプロジェクト」とわざわざ呼ばない。呼ぶのは、狭義に住まう人のみ。 》 中島 智
 https://twitter.com/nakashima001/status/931603072102440960