『動きすぎてはいけない』六

 千葉雅也『動きすぎてはいけない』河出文庫2017年初版を少し読んだ。

《 理性的な(常識・良識を破らない)コミュニケーションでは、文の真/偽を分ける可能性を様々に守ろうとしている。しかしドゥルーズ発想では、言語の そもそもの威力はむしろ、非-理性的な表現に存している。(中略)特別な造語でなくても、あらゆる語はコンテクストしだいで多方向に意味を発散させる。 或るシニフィアンについて、無限にその諸々の宛先を発散させるならば、それは(接続過剰としての)無-意味になる。 》 「第6章 表面、深層、尿道」 331頁

 加藤郁乎(いくや)の詩、俳句を連想。

   冬の波冬の波止場に来て返す
   とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン
   天の川ねむりの四肢の獅子となり
   昼顔の見えるひるすぎぽるとがる

《 表面に安住するわけにもいかないが、深層に浸りきれば、死のリスクがある……。ゆえに、浮沈しなばら、表面と深層のあいだに、不純に住まうしかない。 そのような半端さを「滑稽(リディキュール)」と自嘲するしかないドゥルーズがいるのだ。この〈中層〉において、ドゥルーズ固有の思考のイメージが、 体をなしているように思われる。 》 「第6章 表面、深層、尿道」 344頁

 絵画へ横滑りさせてみると、なかなか興味深い。

《 表面と深層のあいだには、芸術未満であって芸術に隣接する一定のまとまり、尿道的なまとまりが位置している。肛門的に炸裂する深層の芸術と、性器的な 虚焦点を有する表面の芸術のあいだに。そしてドゥルーズその人が、深層と表面のあいだに位置していた。このようにドゥルーズとウルフソンの重なりを仮定すると したら、どうだろうか。ドゥルーズのコラージュ的な──と自ら認めていた──文体の準-芸術的な質は、〈尿道的な半端さ〉の美学に属しているのではないか。 》  「第7章 ルイス・ウルフソンの半端さ」 366頁

 午後、下調べで自転車で南下。途中左側の用水路をカワセミが飛翔してゆく。きれいだわ。魚がいるのかなあと思ったら、白鷺が川べりにいた。知人の店で お茶して帰宅。

 ネット、いろいろ。

《 芝草:デューラーの水彩植物画 》 続壺齋閑話
 http://blog2.hix05.com/2013/07/post-527.html

 描写のリアリティに仰天。

《 すっかり籠池夫妻のことを忘れている人も多いだろうが、夫妻は今も迅速な裁判を受ける権利を担保されないまま3ヶ月以上も大阪拘置所に勾留され、 被疑者の基本的権利である接見交通権を制限されるという異常な状態に置かれている。標準的な民主主義国家なら、大抵1週間程度で釈放される。 》 異邦人
 https://twitter.com/Beriozka1917/status/932050705413693440

《  人質司法
  周防正行さん「司法の人間だけではなく国民の人権に対する意識の問題もある。人権侵害とはどういうものなのかを実感していないのではないか。 それが強く出れば、こういう勾留がどれほどの人権侵害か分かり批判の声も大きくなる」 》 Tad
 https://twitter.com/CybershotTad/status/932239109526925312

《  僕自身は少数派に配慮しながら決定をするのが当然だと思って生きてきたし、みんなも普段の生活では普通にそうしているのではないかと思ったのだが、 どうもそうではないのかもしれない。むしろ少数派に対する憎しみを抱いている人も多くて、なるほど安倍政権が継続するはずだと思った。 》 想田和弘
 https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/932482254949027840

《  EPはゴミになった
  LPはゴミになった
  カセットテープはゴミになった
  VHSはゴミになった
  VHDはゴミになった
  LDはゴミになった
  CDはゴミになった
  DVDはゴミになった


  どっこい、紙の本は凄え。
  大昔からゴミになってきた年季が違う。したたかに生き残ってきた年季が違う 》 猟奇の鉄人
 https://twitter.com/kashibaTIM/status/932382713843105792