『本を枕に』

 奥本大三郎『本を枕に』集英社文庫1998年初版を読んだ。優れたエッセイ集だ。半ばの「金子光晴『マレー蘭印紀行』」で安楽な姿勢が起き上がった。 のんきな読書が眼光紙背に徹する気分に。書かれた文章の背後には膨大な知識が積まれている。対象の作家、金子光晴寺田寅彦夏目漱石徳富蘆花佐藤春夫岸田國士らは特に、全体像を把握した上で、氷山の一角のごときことをさっと記す。参った参った。一気に読了。

《 既に知られていることを楽しむのではなく、新しい事実を発見し切り開くことが好きなのである。 》 「不良少年の昆虫学」 144頁

《 そうして芸術は進歩するなどという意見に対して私はどちらかといえば否定的な方で、たとえば絵についていえば原始人の描いたものと現代画家の作品と、 どちらが秀れているとかいないとか考えてもあまり意味がないだろうと思ってはいた。渋谷の道玄坂にある額縁屋で買って、下宿の壁にかけて毎日見ていたのは ラスコーの赤い馬の絵で、見れば見るほどそれには描いた人の野生の生命力に発する魅力があったし、一方マチスが勁(つよ)い線で一筆がきのように描いた 女の顔にも限りない魅力があると思っていた。 》 「楽しいフランス文学」 240頁

《 背に朱で刷った小説の題が、第四巻の『双面神』を除いて殆んど消えかえている。(中略)読んでみるとどの小説も語り口がうまく、会話が生きていて、 それからフランス文化が色糸のように織り込まれていて興味深い。 》 「楽しいフランス文学」 254頁

 本棚から『三代名作全集 岸田國士集』河出書房1941(昭和16)年初版を取り出す。『由利旗江』『雙面神』の二編を収録。『由利旗江』は既読。『雙面神』、 読みたくなるわあ。
 蜂須賀正氏(はちすか・まさうじ)『南の探検』、ギルバート・ホワイト『セルボーンの博物誌』、市河三喜(いちかわ・さんき)『昆虫・言葉・国民性』らを あげて彼は書く。

《 そうして右にあげた書物によって解るとおり、博物学が現代の自然科学と異っている点は、前者が常に美の観念を含んでいること、著者の文体がその価値を 決定することにある。 》 「あとがき」 266頁

 白砂勝敏さんの新作『散種弾 (オス弾 メス弾)』、面白く良いので昨日感想をメールで送信。
 https://ameblo.jp/steampunk-powerstone-art/entry-12353529110.html

《  またまた良いものを制作されましたね。
  現代アート空間へ打ち込む夢の種、散弾〜算段、散種弾。
  騒騒〜想像〜想造〜創造。 》

 朝、昨朝に続き茶碗のカケラ拾いを源兵衛橋下流で行う。調子に乗って拾い過ぎて重い。歩いてきたので帰りは一苦労。一汗。コーヒーが旨い。

 ネット、いろいろ。

 造形作家入江比呂の作品が紹介されていた。
 http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20180217/1518871801
 六本木のストライプハウス美術館で催された「入江比呂全貌展」1995年へ行ったときの図録が手元にある。面白いなあとは思ったが……。 これらの作品の先に白砂勝敏さんの作品があるように思われる。いや、違う位相だ。二十世紀と二十一世紀の違いのような。

《 ゲンロンβの連載、ぼくの論考と渡邉黒瀬両氏の連載が妙に重なってきたので、ぼくの立場をひとこと。「視覚」や「触覚」 といった言葉を隠喩で使うと議論が混乱するので、ぼくはそれをできるだけ具体的に使おうとしています。スクリーンは触ってもなにも起きない、 タッチパネルは触るとなにかが起きる。 》 東浩紀
 https://twitter.com/hazuma/status/964675908186529792

《 ぼくの議論はまずその単純な事実から始まります。20世紀を映画の時代、21世紀をタッチパネルの時代として捉えるというぼくの議論はその点では きわめて具体的で、渡邉黒瀬両氏の論考とは、同じ事象に注目しているようでいて発想がちがうかもしれません。 》 東浩紀
 https://twitter.com/hazuma/status/964676363423645696

《  女神「あなたが取ったのは金ですか?銀ですか?」

  羽生「僕は金を」
  宇野「僕は銀を」

  藤井「そしてそのどちらも取ったのが僕です」 》 るっこら
 https://twitter.com/_nyaRucola_/status/964794800862973952

《  うちの家にもデュシャンの作品が一つあるよ
  コピーだけど  》