蓑虫状態に飽きて蒲団を干す。ゆっくり養生。
22日に《 二十世紀初頭の小原古邨〜二十一世紀の白砂勝敏というアニミズムのラインが浮かぶ。 》と記したが、この先に味戸ケイコさんと北一明が つながる予感がした。が、アニミズムとは重なりにくいとも感じていた。土しか信じられるものがないという人間不信に陥っていた北一明は、そこから焼きものを 手がけるようになったと言う。陶磁土かあ。彼のデスマスクはアニミズムに通じるとするのは強引に過ぎるだろう……彼の展覧会図録『陶土塊展』『炎道』 『生命乃燃焼』を見ていて気づいた。作品名の一部に水に関わる言葉が使われている。「漣彫文」「潮彫文」「波状彫文」「怒涛彫刻文」「岩礁彫刻文」「清流」……。 味戸さんは、幼少の頃海岸で遊んでいた経験を懐かしく語っている。北一明は生地飯田市を流れる天竜川の激しい流れを語っている。白砂勝敏さんの最近作は 「水の記憶」シリーズ。
http://shirasuna-k.com/gallery-2/memory-that-water-has/
小原古邨〜味戸ケイコ〜北一明〜白砂勝敏。「水」つながり、だ。私は源兵衛川を愛する会の会長。そして源兵衛川の第一回世界水遺産登録。
そうして思う。標章貼りの問題を。上記「アニミズム」だ。標章によって明確になる像とそこから漏れてしまう像がある。美術で言えば印象派、キュビズムなどなど。 その標章でなんとなくわかったつもりになってしまう。表現形式上のことだけで理解が止まってしまい、重要なことが見過ごされてしまう恐れがある。それはおいて。 水なのだ。馬場あき子の歌。
さくらばな幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり
四者の作品には「水流の音ひびく」のだ。
北一明の図録、美術評論家瀬木慎一の評から。
《 北一明は、アウトサイダーの陶芸家で、どんな団体にも所属せず、毎年、大きな個展を催して、それを唯一の作品発表の場としている。 》 「週刊ポスト」 1986年1月号より
陶芸界の辺境に位置すると思っていたが。江戸の奇想の画家たちを思う。伊藤若冲なんぞ名の知られた画家だったが、いろいろあって地位が下がり、けれども明治期は まだ知られていた。それがある時期を境にふっと忘れられた。小原古邨、河鍋暁斎も同様だ。北一明は知る人ぞ知る存在。味戸ケイコさんも。さらには白砂勝敏さんも。 作品が優れていれば、必ず浮上、再浮上する。それがいつなのかは不明。アンテナを高く張ってその時をじっと待つ。
江戸の奇想に対しての現代の奇想は、戦後の前衛芸術などではなく、北一明、白砂勝敏といった人の作品と言えるかもしれない。