『数学する身体』三

 森田真生『数学する身体』新潮文庫2018年初版を読了。これはいい本だ。

《 脳は、人が経験する世界の一つの原因であるとともに、人が様々に世界を経験してきたことの帰結でもある。その脳だけを環境や身体的行為の文脈から 切り離し、そこにだけ特権的な地位を与えるのが賢明とは思えない。 》 138頁

《 二○世紀の数学は、数学を救おう、よりよくしようという思いの帰結とはいえ、行き過ぎた形式化と抽象化のために、実感と直観の世界から乖離していく傾向が あった。そうしたなかで岡(潔)は、「情緒」を中心とする数学を理想として描いた。 》 165-166頁

 味戸ケイコさんの絵をまず連想。

《 ところが私は、道中いつしか、「数学とは何か」と問うよりも、むしろ「数学とは何であり得るか」と自分に問うようになった。何か変わらぬ、動かぬ「数学」 というものがあり、それを解明したいというよりも、絶えず動き続け、変容し続ける数学の、果てしない可能性の方に目が向くようになったのだ。 》 185-186頁

 ネット、いろいろ。

《 芸術の創造には、過去の作品の継承や発展、過去の作品との対話や変奏があって良いことなので(それは芸術創造の大事な要素)、自分はそれを「亜流」 という批判的な言葉と区別して「進化系」と呼んでいる。もちろん、亜流の作品もあるし、他方で進化系もある。それを見分けるのが、批評。 》 布施英利
 https://twitter.com/fusehideto/status/994723514274926592

《 ちなみに、ぼくの批評家の定義は、ざっくりいえば「本来存在しないはずのコミュニケーションの回路(誤配)を作るひと」のことです。 ふつう批評という言葉で言われているよりも大きい定義で、きっとプロデューサーとか政治家とかアクティビスとかも入る。ぼくはそういうひとを育てたいのです。 》  東浩紀
 https://twitter.com/hazuma/status/994760512486260739

《 修験道神仏習合ですから、ご神体(出羽三山の神々)とご本尊(不動明王)を共に拝みます。祝詞と一緒に般若心経も唱える。 これが日本の民衆が実際に行じた宗教の本来の形だろうと思います。湯殿山はもともと大日如来信仰です。 明治の廃仏毀釈はほんとうに日本の宗教の純良さを歪めましたね。 》 内田樹
 https://twitter.com/levinassien/status/995083191730909184

《 上位者の意向を先回りして行動する術に長けることを、最近の日本では「忖度」という言葉で言い表すことが流行しているが、私は違うと思う。 忖度とは主体的な判断のことで、それをしない選択肢も自分に残しているが、調教された犬のように自動的にそれをするのは「服従」でしかない。他の選択肢はない。  》 山崎 雅弘
 https://twitter.com/mas__yamazaki/status/994875917389434881

 ミシェル・ウエルベック服従河出文庫
 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309206783/

《 財務大臣が地底人である可能性も否定できない。 》 飲用
 https://twitter.com/inyou_te/status/994787387657121793