『日本美術史の近代とその外部』

 稲賀繁美『日本美術史の近代とその外部』放送大学教育振興会2018年初版を少し読む。

《 この教科書は、「日本」を画定することに疑問を呈し、「美術史」という枠組みをも解体しようとする試みである。さらに「近代」という時代定義も、 同様に括弧に括り、問い直さねばならなくなる。 》 まえがき

《 だがそれは、徒に叛逆を唱えることではない。むしろ、現在の社会と学術とが、あらたな再編成の時期を迎えている、との認識に基づく企て(くわだて)である。 「日本」「美術史」「近代」の問い直しから、はたして何が見えるようになり、なにが新たな課題となるのだろうか。 》 まえがき

《 『北斎漫画』第三篇には透視図法への通暁ぶりを誇示する挿絵も確認できる。だが両者に共通して、北斎が西洋の透視図の水平線の意味を理解しなかったことには 注目したい。 》 「第1章 透視図法の東西:導入にかえた」 22頁

《 いわゆる「日本趣味」の魁(さきがけ)となった画家エドゥアール・マネの事例を通じて、文化触変の実態を究明する。 》 「第3章  エドゥアール・マネの日本」 44頁

《 このデュレという人物を媒介項として改めて検討してみると、近代日仏の絵画交渉史において、マネが、日本側の北斎にも呼応する役割を演じていたことが 見えてくる。 》 「第3章 エドゥアール・マネの日本」 44頁

《 マネは準備なしに画布に向かい、気に入らない素描を何度も消しては再び挑んだ、とマラルメも証言している。だが日本人は即興制作をする、という誤った先入観を マネに植え付けたのは、実は現場目撃者として権威をなした日本旅行者デュレ本人だったのでは? という嫌疑も生ずることとなる。 》 「第3章  エドゥアール・マネの日本」 49頁

《 だがそれは逆に、マネの奇矯なる画業を当時の世相において弁護し、支配的な審美眼に対抗してその新奇な美学を認知させることが、いかに困難な事業だったかをも、 期せずして裏書きしている。 》 「第3章 エドゥアール・マネの日本」 52頁

 午前、三島市主催の「境川・清住緑地」拡張整備に向けたワークショップ、第一回の現地視察に参加。噴き出す湧水の勢いが今まで見た中で最高。
 https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn036225.html
 午後、三嶋大社のギャラリーへ歩いて行く。知人たちに挨拶、談笑。桜川を遡って三島駅近くで安売りチケットを購入。帰宅。どの川も水量が増している。

 ネット、いろいろ。

《 【福島原発かながわ訴訟】焦る国。結審控え法廷で28分間の反論。「対策講じても事故は防げなかった」「過失責任認めた4地裁の判決は誤り」〜第27回口頭弁論  》 民の声新聞
 http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/blog-entry-255.html

《 言語化とは不可避に圧縮であり、諸々の具体が捨象される。よって言語的コミュニケーションにおいては解凍が不可欠となるわけだが、 そこでは解凍ソフトが人それぞれに異なることは発かれず、そのことによって互いに齟齬を保持したまま共感や疎通を成り立たせる。この深入りできなさに 言語の功罪がある。 》 中島 智
 https://twitter.com/nakashima001/status/997743322478227457

《 一方で、非言語コミュニケーションにいえる傾向として、情報圧縮力の緩さがある。つまり、理解よりも体験性がそこに生まれる。しかし非言語藝術を 慣習的に、言語/記号で理解しようとしてしまう人々は「説明してくれなければわからない」となる。それを「他者のわからなさ」と見なすのが体験性である。 》  中島 智
 https://twitter.com/nakashima001/status/997745997810827264

《 でも、「下関西高校」は「しもかんさいこうこう」ではなく、「しものせきにしこうこう」です。 》 twincities21
 https://twitter.com/twincities21/status/997814913471950850

《 琵琶湖の水ぜんぶ抜く 》 鯨統一郎
 https://twitter.com/kujira1016/status/998121935434272768