『正法眼蔵』第2巻

 道元『現代語訳 正法眼蔵 2』大蔵出版1995年2刷、「ニ五 神通(じんづう)」を読んだ。

《  神通(じんづう)といえば、天空を翔け廻ったり、はるかかなたのものが、見えたり聞こえたり、他人の心を察知することができたり、などを想い起こす。 (中略)
  道元は、このような通力を小神通としていやしめる。大神通は、凡情で不可能なことを可能にするような、なまやさしいことではない。日常茶飯のふるまい、 またふるまっている自分そのものが、実は大神通に催されていることに注目する。 》 解説 345頁

 「ニ六 大悟(だいご)」を読んだ。

《 ここに詳しく述べるいとまはないが、わたしは、釈尊がはじめて開発したダンマ(法)に立ち戻らねばならないと思う。そしてそのダンマの果てしなき働きの 実態をよく未嘗(みしょう)せねばならないと思う。(中略)道元はこのダンマをよく味わっていた。しかし、その原態にもとづく道元の発想は智にかたむきがちで あった。本文に示される生知・学知・仏知・無師知の四知は、その一例である。道元の「大悟」は、それを表明することにおいて智を出口としていることが特徴であり、 出家者ならざるわれわれにとっては、智だけでなく、さらにさまざまな出口に気づいていくことが、これからの課題であろう。 》 解説 373頁

 「ニ七 座禅箴(ざぜんしん)」を読んだ。

《 したがって座禅を行(ぎょう)じているもののいましめであり、行のなかでの追求であるから、外側に立って座禅を眺めているものには理解しがたい。もとより、 それは『正法眼蔵』全般についていえることである。 》 解説 391頁

《 さらに一歩進んで、坐仏を究明してみると、そこに殺仏(仏を越えていく)の力が出てくる。坐仏している、まさにその時が殺仏なのである。しかしまた、 殺仏のすがたや光明をたずねてみると、かならずそれは坐仏になっているのである。そもそも殺という言葉は、普通の「ころす」ということと同じように見えるが、 けっして一つに考えてはならない。いったい坐仏が殺仏であるというのは、どのような様子を呈しているかと、究明してみるがよい。仏の力には殺仏があるということに よくよく留意して、われらには殺人があるかないかということも学ぶべきである。 》 「座禅箴(ざぜんしん)」 411頁

 「ニ八 仏向上事(ぶっこうじょうじ)」を読んだ。

《 ところで、主題の仏向上事とは、どういうことか。道元は、洞山の話を挙げて説明するが、仏向上事とは、こういうことだということが、私にはさっぱり 伝わってこない。なるほどそうだと知り得たときに、仏向上事は分る、というだけである。しかも道元の説明には理屈が多い。それは私には無用の長物としか思えない ばかりでなく、仏向上事の率直な理解をますます遠ざけてしまうようである。 》 解説 429頁

《 ともあれ、この巻は『眼蔵』のなかで出来のいいものとはいえない。 》 解説 432頁

 すごいね、ここまで書くか、だね。「仏向上事」本文で興味を惹いた箇所。

《 「果てしなき空(そら)に、白雲が飛んでもさまたげない」 》 452頁

 北一明の飾皿に『夜空に白雲飛ぶ』1973年(31.0×26.3cm)がある。作品名がずうっと気になっていた。この石頭(せきとう)無際大師の言葉が出典だろう。

 これにて道元『現代語訳 正法眼蔵 2』大蔵出版をとりあえず読了。ふう。

 なぜ昨日の子どもたちのラーメンの切り貼り絵が、見る者の心を開放、解放するのか。いろいろな要素があるだろう。経験が浅いから。経験を積むと、経験値に 無意識に制御、縛られる。ラーメンという最も卑近な食べ物が主題だから。食の直接的な経験ゆえ、気持ちよく気楽に工夫し、絵にしやすい。などなど。
 昨夜午後十時で26.0℃。熱帯夜じゃないか。
 未明の雨に洗われてスッキリ青空、というか夏空。暑い。昼過ぎに31℃を超えた。真夏日だ。まだか、梅雨明け。

 ネット、いろいろ。

《 祝!ぶたぶた誕生20周年!  》 Yomeba!
 https://yomeba-web.jp/special/butabuta/
 『ぶたぶた』廣済堂出版1998年9月1日初版帯付を買って以来の愛読書。

《 「青の洞窟」超えた 中国人観光客に大人気の道の駅 目当ては嘉手納基地 》 沖縄タイムスプラス
 http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/274258