「恁麼」「行持 上」

 道元『現代語訳 正法眼蔵 3』大蔵出版1995年2刷、「ニ九 恁麼(いんも)」を読んだ。玉城康四郎の解説から。

《 表題の「恁麼(いんも)」というのは、いわゆる俗語で、「そのように」「このように」、あるいは「そのような」「このような」という意味である。この恁麼の 実践的内容を、この巻では、深め、かつ拡げていく。 》 5頁

《 道元は、まず右の句ついて、恁麼とは「まっしぐらに究極の悟りに至ること」と解する。そして「究極の悟り」は、全宇宙よりも大きい、という。 》 6頁

《 いいかえれば、ダンマが全人格体に顕わになり、滲透し、通徹する。すると自己性が消失して、ただひとえに形なきいのちが果てしなく奔騰するのみである。 それが宇宙を、どこまでも食(は)み出ていくことは必然である。 》 6頁

《 したがって、「そのような」「そのとおりの」「ありのままの」という恁麼は、静態的ではなく、動態的であることはいうまでもない。しかも、主体を軸とした 全法界の、主体消失の活動態である。 》 8頁

 続く「三○ 行持(ぎょうじ) 上」を読んだ。解説から。

《 禅定と思索の肝胆を絞り出すような営みの諸巻のさなかに、こうした最大長編の「行持」巻を書き記したのであるが、おそらく道元は、思索の苦渋から解放されて、 ほっと一息ついだであろうと同時に、さらに仏祖たちを顧みて、日常の生きかたのいかに重大であるかということに、改めて思いを潜めたことであろう。 》  33頁

 二日間時間を割かれたので、午後、暑い陽射しも何のその、田圃道を自転車でブックオフ函南店へ行く。獅子文六悦ちゃんちくま文庫2015年初版、デイヴィッド・ 、アーモンド『肩甲骨は翼のばごり』創元推理文庫2009年初版、計216円。知人の店に寄る。彼も『悦ちゃん』は初見だった。本屋へ寄り、新刊の山口雅也 『生ける屍の死(上・下)』光文社文庫帯付を受け取る。帰宅。冷房の効いた部屋で体を冷やす。

 ネット、いろいろ。

《 マルクス・ガブリエル来日インタビュー  入門マルクス・ガブリエル 》 週刊読書人ウェブ
 https://dokushojin.com/article.html?i=3592

《 眼で見られないものを見たい、耳で聴けないものを聴きたい、手で触れられないものに触れたい、舌で味わえないものを味わいたい、 という渇望をわれわれは劫初から抱いていて、そうした要求に応えるものは富ではなく、アートであり、哲学であり、宗教だ。 》 清水高志
 https://twitter.com/omnivalence/status/1013458642576633856

《 感覚的対象と実在的対象、というハーマンの区別はよく言ったもので、結局感覚で感じられる限りのものにわれわれは満足しないし、 それは「実在ではない」。手許存在として勝手に扱えるとしてもそうなのだ。そういう不自由感をむしろ求めている。 》 清水高志
 https://twitter.com/omnivalence/status/1013461367460786176

《 ピーター・バラカンさんが9条Tシャツを着ているだけで警官に詰問された件は、やくみつるさんが朝日新聞で描いていたけど、紫野明日香さんのように 国会傍聴の際、「9」をモチーフにしたネックレスまで外さないと入場が許可されなかった件は、外圧頼みだけど、それこそBBCなら特集を組んで放送するかも。 》  盛田隆二
 https://twitter.com/product1954/status/1013294846386163712