『Rera』『沼の絵』

 故松平修文氏の未亡人から二冊、詩集『Rera』と句集『沼の絵』を恵まれる。挟み込みの栞から。

《 早いもので、松平の死から一年が経ち、先日一周忌の法要を営みました。(中略)つきましては、松平が皆様に差し上げたいと願った上記の本を、 松平の思いを込めてお送りさせていただきます。 》

 遺歌集『トゥオネラ』の栞に載った拙文を再録。松平氏はとても喜んでくれて、葉書を寄こした。

《   「異化なる万華鏡」  越沼正

 本を手にするとき、私がまず注目するのは装幀である。装幀は本の内容を端的に表していると考える。松平修文さんの歌集『トゥオネラ』には深沢幸雄さんの一九 六一年の銅版画『笑いの底』が使われている。私は一入ならぬ感慨を覚えた。深沢さんから元日に届い年賀状にはこう記されていた。

  永らくお世話になりました
  以降の年賀状はご遠慮させていただきます
  ありがとうございました

 あくる正月二日に深沢さんは逝去された。享年九十二歳。
 一九五○年代後半の深沢幸雄さんの銅版画は、背後の無意識に向かって行なう深い自己集中の果てに頭脳の奥底からわいてくる不思議な幻像を描出、定着させている。その「悪戦苦闘」の創作行為は、一九六二年に突破・転回を迎えたが、その分水嶺に位置する作品群のひとつがこの『笑いの底』である。その作品群には一九六一年の『底』『久遠の歌』、一九六二年の『内在する磁極』『生』があるが、それらは題名も作品も、松平修文さんの『トゥオネラ』に半世紀を超えて照応しているように私には思える。また『笑いの底』から私は、ダンテ『神曲』「地獄篇」の地獄の底を連想した。なお深沢さんには連作銅版画『地獄篇』一九五六〜一九五七年がある。 『トゥオネラ』では笑いの底を踏み抜いた作品が私の目にとまる。

  向日葵は丈夫な茎で天辺の焦げた頭を支へ、
  乾涸びた葉つぱをぶら下げて立つ          (不在)

  形見としてあなたにぼろぼろの燕尾服を、あなたに底の抜けた水甕を、
  あなたに褪色したドライ・フラワーの緋薔薇を    (夏うた─真昼の怪)

 黒い笑い─ブラックユーモアと解する向きもあろう、が、私にはそこから逸脱する、 笑いの底が抜けたその先を直感する。しかしその先になにがあるのか。あるいはないのか。

 処女歌集『水村』は、エキセントリックな幻視と幻想が不穏の予兆を感じさせ、 危険なまでに甘美な毒を有していたが、『トゥオネラ』では現実の底を抜き、深い裂け目を見せている。それは『水村』『原始の響き』『夢死』『蓬』の此岸から、 『トゥオネラ』の彼岸の際へ、という立ち位置の移動に表れているように感じられる。よって情景光景はガラリと異なる。とはいっても、『水村』からの遠いこだまの ような歌も当然見られる。

  水底に沈みし道がみえてをり 墓場へつづくそのくらき道  (星の厠)

  黒き桜花充ち充ちる夜の公園で少女らは老婆らとすれちがふ (夢のあとで)

 そして『トゥオネラ』の特徴を示す歌はこれだろうと私は思う。

  僕が視てゐるものをあなたも視てゐるのだが、
  しかし同じものを視てゐるのではない        (夏うた─真昼の怪)

 なにげない歌だがここには深い断念と異化がさりげなく表現されている。なにげなく直截であるゆえに一際心に沁み入る。『トゥオネラ』は多様な読み方が可能なゆえ、 読者をさりげなく惹き込む「異化なる万華鏡」の歌集といえよう。 》

 午前、松本市からの視察三十人余を、源兵衛川〜桜川〜三嶋大社へと案内。喜んでいただいたようだが、わからない。疲れる。
 午後、近所の本屋に入荷していないので沼津市の本屋まで足を伸ばし、中公文庫の新刊二冊を購入。草森紳一『随筆 本が崩れる』2018年初版帯付、武田泰淳 『新・東海道五十三次』2018年初版帯付。後者は毎日新聞連載で読み、単行本で読んだ。三嶋大社の茶屋はすでにない。

 ネット、いろいろ。

《 あのときの感覚、詩がビュンって自分の中を貫いた感覚、忘れてない(吉増さんの「燃える」です)、別にわかりやしなかったし、共感もしなかったけど、 でも言葉がわたしを貫き、わたしを追い越し、未来へと飛んで行ったその後ろ姿を、忘れていない。 》 最果タヒ(Tahi Saihate)
 https://twitter.com/tt_ss/status/1066678599875362816

 「燃える」が収録されている詩集『黄金詩篇思潮社1970年初版を本棚から持ってくる。疾走する詩篇。シビレた。当時、思潮社へ行って購入。

《 事実は私小説より奇なり 》 いかふえ
 https://twitter.com/ikafue/status/1066730019706232833