「クレメント・グリーンバーグの芸術理論」

 T・J・クラーク「クレメント・グリーンバーグの芸術理論」(『批評空間』1995年臨時増刊号収録)を読んだ。これまた一読では理解が進まない。三読してやっと わかりかけた。なんという凡人。興味を惹かれた箇所をいくつか。

《 グリンバーグがいうには、「現在のわれわれの社会の衰微」(この表現は彼のものである)はもはや誰の目にも久しく、しかも過去の暗澹とした先例のどれとも 多くの点で共通するところを有している。この状況下にあって新しいのは、芸術がたどりつく道程である。ブルジョワ社会は危機に瀕し、マルクス以降、「それがその 特有の形式をとっていることの必然性を正当化する」能力をますます喪失しつつあるが、それへの反動と自由な選択とを相半ばさせながら、耐久性のある特異な 芸術的伝統生みだした。これがモダニズムとわれわれが呼ぶところのものであり、その同じものを指して当時のグリーンバーグアヴァンギャルドという語をもちいた のだった。 》 106頁上段

 グリーンバーグの文は1940年の発表。クラークのこの文は1983年の発表。

《 この芸術観にたいする批判を三つ四つ提示しよう。まず第一に、芸術それ自体が独立した価値の源泉になるという考え方に難点があると指摘したい。第二に、 その価値なるものについてのグリーンバーグの説明の中心的要素のひとつであるところの、アヴァンギャルド芸術における「媒体」についての読みも、承服しかねる。 第三は、モダニズムの形式的論理にかんする彼のスケッチだ。彼はある種のアヴァンギャルドのことを見くびって省略しているようだが、それは、一方で彼が至上 (パラマウント)とみなすものと結びついていると私は信じるので、アヴァンギャルドのその両方の実践を描き含めるかたちで、彼のスケッチを手直ししてみたい。 神秘めかすつもりもないのではっきりと指摘するのだが、モダニズム芸術にける否定の実践のことだ。この実践こそは、グリーンバーグが激賞するところの純粋性の実践 (媒体の認識と活性化)が形式となって現れたもののように、思われるのである。さて最後に、いま述べた三つの批判が結びつく方途、とりわけ、あの否定の実践と、 ブルジョワジー無きままになされるブルジョワ芸術家の仕事との、その関連をいくつか示唆しようと思う。 》 111頁上下段

《 話を簡単にするために、誰もが知っている事実としての「平面性(フラットネス)」をとりあげてみよう。一定の間隔を空けてではあるが、クールベ以降の画家たちが ある画面の文字どおりの平面性を一個の明確な事実として回復させてきたことは、たしかに真実にちがいない。だが思うにこの場合、なぜにその単純にして経験的な存在 (プレゼンス)が芸術にとっての興味深さということにつながるのか、が問われるべきなのだ。(中略)答えは簡単だ。平面性という事実が──たとえばセザンヌマチス の芸術におけるように──鮮烈でとりあつかいやすかったのは、それがある別のものを表現しえていたからなのであった。そう、特殊にして抵抗的でもある、そんな質を。 (中略)一八六○年から一九一八年にかけての美術の文脈をひとまとめにしてみたときのアヴァンギャルドの豊かさは、平面性に複雑で親和的(コンパティブル)な 価値の数々──必然的に芸術以外の領域に由来する──を与えた能力の点から記述し直すことができるかもしれない。 》 113下段-114頁上段

《  つまり平面性とは、絵のなかにはいって夢み、生活と切り離された空間において精神を自由な連想に供したい、という普通のブルジョワの願いにたいする障害 (バリヤー)とも思われたのである。
  私の言い分は単純だ。つまり、平面性はその最盛期にあってはこうしたさまざまな意味と評価だったのであり、その意味と評価がいわば平面性の実体だった、と いいたいのだ。そしてそれは、そのようなものとしてみられた、そのとおりのものなのだった。 》 114頁下段

《 〈芸術〉という事実はモダニズムにあっては、否定の事実のことなのである。 》 116頁上段

《 否定とは、このより広い解体が芸術のなかに兆候となって現れたものである。それは文化のなかの首尾一貫した反復可能な意味の欠如の事態を捉え、それを形式へと 練り上げようとする試みにほかならない。 》 116頁上段

《 すなわち第一の点は繰りかえしになるのだが、否定とは、芸術がそれ自体で一個の価値として現れてくる、まさにその形式としてモダニズムの実践そのもののなかに 書き込まれている。第二に否定とは、意味を保証したり──たとえば冗談や皮肉さえの場合のように──自由な遊戯と幻想の空間を開け放ったりするような実践として 現れるのではなく、ひとたび始まるや蓄積的で制御不能のものとなる、そんな絶対的で包括的な事実として現れる。意味をすべて飲み込んでしまう事実として現れるので ある。 》 116頁下段

《 その内容のない否定がまた逆に否定される場合もあるが、これはふたたび、モダニズムの内部ないしその限界において生起するものである。 》 117頁下段

 枝葉末節がないとあまり面白くないな。しかし次の掲載論文の副題が「T・J・クラークへの反論」。面白くなりそう。クラークの再反論も控えている。わくわく。

 最低気温早朝1.5℃。蒲団から出た顔が寒いはずだ。
 午後三時すぎ氷雨。買い物を早めに済ませておいて正解。

 ネット、いろいろ。

《 金持ちと貧乏人を比べて、商売をするなら金持ちを相手にしたほうがどう考えてもいいのに、金持ちを増やす政策じゃなくて今いる金持ちを太らせて 貧乏人を増やす政策をしているんだから、政策を推し進めている人間は確かに商売なんかやらずに利権でくってるんだな、と感じちゃうじゃんねぇ。 》  じゃん姉_読書は冬がきたので諦めた…
 https://twitter.com/rosysea22/status/1072090870957002753

《  昨日砂糖を盛大にひっくり返した私ですが、これまで色んな粉をひっくり返し学んだ教訓をお伝えしたい。

  「カレー粉は掃除機で吸うべからず」

  カレー粉を一度吸い込んだが最後その掃除機は息絶えるその日まで一生掃除する度にカレー臭。フィルターを洗っても無駄です。いいですかカレー粉は掃(文字数 》  林めぐみ
 https://twitter.com/megumeimusic/status/1071966676604710912