「モダニズム以後」

 「モダニズム以後 ジョゼフ・コスースに聞く」(『批評空間』1995年臨時増刊号収録)を読んだ。聞き手は浅田彰。1994年7月21日。

《 浅田  批評家は芸術家が理論家になるのを恐れるのです。芸術家はもの言わぬ野獣であるべきで、そうすれば批評家はそれについて好きなように理論を展開できる。 その点、(「ドナルド・)ジャッドやあなたは自分自身が理論家でありすぎたために、批評家に嫌われたのでしょう。
  コスース まさにその通りです。 》 227頁上段

《  浅田 こうしてみると、グリーンバーグ主義の後、ジャッドとあなたとが飛び抜けていることは明白です。ただし、ジャッドは最後までモダニズムの閉域の中に とどまっていた。その終着点にいたと言ってもいいでしょうね。
  コスース まさにその通りです。最後のモダニストというのがいるとしたら、それはジャッドだということになるでしょう。そして、私はそこで歴史に線を引きたいと 思うのです。 》 228頁下段

《 コスース コンセプチュアル・アートの初期の支持者だったルーシー・リッパードらは、フォーマリズムから出発し、ミニマリズムを経由したので、 コンセプチュアル・アートを対象(客体)の還元と非物質化という側面でとらえました。そこで対象はゼロになるわけですが、それでも、その不在の対象こそが重要だと いうことになるわけです。しかるに、私にとって重要だったのは、対象の還元ではなく、意味の生産でした。『一つと三つの椅子』のような初期の作品は、形をもって いるように見えるけれど、私はそれに署名しているわけではない。展示されていない証書があって、作品を所有するにはその証書を所有しなければならない。そこには 作品の仕様と作り方が記されれおり、椅子や写真はそれに従ってつねに作り直されるべきものなのです。それによって作品は聖遺物めいたアウラを最終的に剥奪される でしょう。美術館や画廊で見られるものは、プレゼンテーション(呈示)の形式です。それは芸術ではなく、観念の媒体(コンヴェヤー)です。証書もまた芸術ではなく、 だれがそれを所有しているかを示し、仕様と作り方を示すだけです。このように、物が芸術なのではなく、観念が芸術なのです。 》 230頁中下段

《  コスース 次に言ったもっと重要な点は、私の作品は、マンガでも哲学のテクストでもなく、その間の空隙に存するということです。私はずっと前から、自分の 作品は諸関係の関係であると言ってきましたが、それはこういうことです。
  意味を生産し、伝達するには、何らかの道具が必要です。しかし、作品はその意味にかかわるのであって、そういう道具の対象としての実在や美的存在にかかわるもの ではありません。もちろん美学と無縁な反美学というのはあり得ませんから、私は美的特性をゲームの駒として用いますが、それは中立性を達成するというほとんど 不可能な目的のためなのです。ドーナッツの穴を手にいれるためには、ドーナッツをつくらなければならない、というようなものですね。 》 231-232頁

《  浅田 そして、TV文化はファシズムの最強の継承者のひとつでもある。
  コスース その通りです。 》 235頁上段

 ジョゼフ・コスース『一つと三つの椅子』は、検索で見られる。

 この数日友だちからいただいた柚子をお風呂に浮かべている。いい香りに身も心もまったり。それも今夜で終わり。探しに行くか。

 ネット、いろいろ。

《 もはや過去の技術となりつつある原発固執し推進し続ける安倍自民に任せてた結果がコレ。トップセールスとかはしゃいで注ぎ込んだプレゼン費用も全てパー。 政治に関心の無い日本国民はそんな事も知らずにこれからも高い授業料を払い続けるんだろうね。 》 所 十三
 https://twitter.com/tokoro13/status/1074471005249097729

《 原発保有している国のほうが圧倒的に少ないのだが?(約200国中、30国前後) そして世界中の原発の、なんと1割がこの地震国に有る。異常だよね。  》 津原泰水
 https://twitter.com/tsuharayasumi/status/1074462032458506240

《  「どうだい、暮らし向きは?」
  「アベノミクスのおかげで、右肩上がりの絶好調さ!」
  「新聞は読んでるか?」
  「当たり前さ。新聞を読まないで、どうすれば、俺の暮らし向きが素晴らしいって事が実感できるんだ?」 》 日本人ジョーク(bot)
 https://twitter.com/Japanese_Joke/status/1074532220486922240