閑人亭日録

『椿の海の記』ニ

 石牟礼道子『椿の海の記』朝日新聞社1976年初版、少し読んだ。晴耕雨読。「第一章 岬」を読んだ。著者の幼児期の思い出。

《 春の山野は甘美で不安だが、秋の山の花々というものは、官能の奥深い終焉のように咲いていた。春よりも秋の山野が、花自体の持つ性の淵源を香らせて咲いていた。  》 16頁

 「第二章 岩どの提燈」を読んだ。火葬場の隠亡にも癩病の家族にも分け隔てなく接する集落の人たち。

《 完璧な船であった時分よりも、むしろ廃船となってからの方が、竜骨は、それ自体の芯のようなもので生きていた。舳先の頂点から船底にむけて、なだらかに かこいこむ曲線のあたりに、あごひげのような、陰毛のような海草をいつも下げていた。 》 42頁

 ”なだらかにかこいこむ曲線”という表現に脱帽。
 「第三章 往還道」を読んだ。

《 彼女らは朝のひとときを行列のようにこの道を通って、町の中心部の四つ角に至り、そこで商いをひろげる女房もいれば、更に三方の道に分かれて、水俣川の上流や 枝川の奥の村々に入り込むものたちもいた。ぎっし、ぎっしという女籠(めご)の音と、ひたひたと踊るように走り抜ける草履の音と、「魚はいらんかなあっ」と 町筋をのびてゆくつややかな声とはとく調和して、新興の栄町はそのような彼女たちの気魄によって夜が明けるようなものだった。この女房たちの二代目、三代目が ことごとく、後年水俣病になってゆくのである。 》 61頁

《 「やっぱり若かひとにゃ、この髷が、一番気品の高うございます」 》 69頁

 気品、だなあ。

《 土や泥がまだ生きていた頃の道の上には、そのような一日の人生の地紋が、さまざまに交わりながら残っていたのである。 》 75頁

 起き抜けに布団の中でメモ。そのまま写す。

 味戸ケイコの絵、北一明の茶碗、深沢幸雄の銅版画などを前にして、作品を作っている材質を考える前に表面が現出させている表情、景色にまず眼が釘づけになる。 しばらくしてああ絵だ、茶碗だ、版画だと思い至る。作品の土台は常に後から気づく。
 すぐれた作品は一べつにして眼を奪う。その美はうつろうものではなく、常にそこに現出し、確固として在る。そこには必ず気品がある。

 東京新聞、きょうの運勢は”何となく心が苛立つ。それは物質に執着しすぎるから”。今朝、心は湧き立っている。

 ネット、うろうろ。

《 一人暮らしに最適なペットはロバ!1万kmの道を越えてメキシコにロバを買いに行く/地主 恵亮 》 MoooM
 https://mooom.chintai.mynavi.jp/koneta/roba

《  なに?昨日のニュースで「新札発行」とか騒いでいたけど、いまから5年後の話なの?
  そのあいだに渋沢栄一がスキャンダル起こしたらどうするつもりなんだろう。最近はいろいろ厳しいからなあ。せっかくお札を刷っても回収騒ぎとかになるぞ。 》  安達裕章
 https://twitter.com/adachi_hiro/status/1115799276611719168