閑人亭日録

 『運命論を哲学する』七

 入不二基義森岡正博『運命論を哲学する』明石書店2019年初版、「第3章 時間と現実についての補遺 入不二基義」を読んだ。じつに濃密な論述が展開されている。 濃密で底が見えない。しかし惹かれる。

《 私の主題は、形而上学的運命論であって、因果的決定論でも物語的(解釈的)運命論でもないし、また論理的運命論それ自体でもない(それを書き換えようと している)。 》 193頁

《  形而上学的な水準での運命論とは、「現実」と「様相」との「関係と無関係」の問題であり、「関係と無関係」の拮抗(中間)としての「運命」は、 「あるようにあり、なるようになる」と表現できると考えている。
  現実の現実性(現に)は、否定の作用域の外で働く力であり、そもそも可能性という相の下にはない。つまり現実は、「どのようであるか」という内容とは無関係に、 唯々(ただただ)「現に」というだけであり、他なる可能性(様相)を持つことができない──内容と否定なくして様相なし──。そのような現実は無様相であるから、 そもそも「必然である」のでもないし「偶然である」のでもない。必然でも偶然でもないということは、可能性(=必然+偶然)という様相のベースが、そもそも 現実に対しては適用されないということである。 》 194頁

 少し引用してみたが、このような論述が展開される。まだ理解できないけどおもしろい(理解できるのだろうか)。

 鑑賞には午前十時の日差しが良いという北一明の言葉に従って、彼の茶碗を晴天のもとで鑑賞。変幻する耀変にあらためて息を呑む。静嘉堂文庫の国宝曜変茶碗よりも このほうがいいよなあ。なんて暴言をぬけぬけと吐くのは私くらいか。ま、蟷螂(とうろう)の斧だけど。しかし、小原古邨が俄に注目されたのを見ると、評価はいつ 激変するかわからない。K美術館の時にはすでに小原古邨は将来値が騰がると業界は予想していた。北一明は陶芸界にケンカを売っていたようなものだから、なあ。 利害関係のない海外ではちゃんと評価されている。果報は寝て待て。死後に果報が届く予感。ま、それでかまわない。歌人塚本邦雄だったか、大器晩成というが、 死んでも晩成しない大器がある、とか。私は大器ではない。知人の彫刻家から偉大なる変人と呼ばれた。これは嬉しかった。
  http://web.thn.jp/kbi/kitaron.htm
 午前十一時から街は歩行者天国。どこから湧くのかこの混雑。お神輿、チアガール、応援団などなど鳴り物が賑やか。というかうるさい。ま、それもいい。愉快愉快。 わしゃ一人飯食う男かな。腹が膨れれば歩く。それにしてもこの人出。年々増えてくる。そしてこのまったり感。これが三島らしさ。カフェで休んでいたら入ってきた 某衆議院議員が私を憶えていたらしく、挨拶して名刺を手渡した。「頑張ってください」とお世辞を述べる。令和で仕事から引退したという85歳の床屋さんと四方山話。 帰宅。ホコ天も終了へ。

 ネット、うろうろ。

《 昭和の終わり、平成の終わり /浅田彰 》 REALKYOTO
  http://realkyoto.jp/blog/asada_akira_190501/

 最後の部分で「クール・ジャパン」がイギリスの「クール・ブリタニア」の模倣であると指摘。情けない政府だ。

《 特別企画シンポジウム「グレアム・ハーマン『四方対象』をめぐって」 》 ハイデガー研究会編『Zuspiel』第2号
  https://heidegger2017.wixsite.com/mysite/zuspiel-bd-2-2018

《 もはや推理小説かぐや姫」の壮大なカラクリ/イザベラ・ディオニシオ 》 東洋経済ONLINE
  https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190505-00278667-toyo-soci&p=1

《 Good morning. 》 Rabih Alameddine
  https://twitter.com/rabihalameddine/status/1124321456769212417