『道元との対話』ニ(閑人亭日録)

  岩田慶治道元との対話 人類学の立場から』講談社学術文庫2000年初版、「第1章 『正法眼蔵』を読むとき」を読んだ。

《 袱紗(ふくさ)を手にもって棗の甲(こう)を拭く。(中略)庭に面した広縁で、この動作をくりかえしていると、自分と庭の木々の姿が、次第にとけあってくる。 自分とその庭のひんやりした空気が、徐々に同調してくる。そうすると手のなかの棗は、どこそこの誰がつくった器物だという歴史を離れて、手のなかの宝器、手のなかの 宇宙になってくる。手と棗が、自分と宇宙を表現する。手と棗より外に、どこにも宇宙などというものは無くなってしまう。自分の身体を限る境界が消えるのである。 》  78-79頁

 北一明の焼きものを手にするとき、そんな心境になることがある。

《 自分で強いてそうするわけでも、他から強制されてそうするわけでもないが、きわめて自然に、おのずからに、そういう世界に入りこんでいる自分を発見する、 というのである。 》 82頁

 一昨日、源兵衛川で茶碗のカケラなどを拾っていたとき。次第に作業に没入し、水の冷たさを忘れ、なにかそこだけの結界に入っていたような感じを、作業を終えてから 気づいた。

《 われわれ一人一人は、それぞれが一人一人の宇宙人間なのである。一人の宇宙人間が同時に無数の宇宙人間なのである。一人は、一人であって一人ではない。(中略) 一人と一人、自分と鳥、自分と魚のあいだに境界がないからである。精神のひろがりとして、そう感ずるというのではない。身体がそうなのである。全心すなわち是れ 全身で、全身すなわち是れ全宇宙なのである。宇宙の出来事は、何もかも自分の身の上の出来事なのである。 》107頁

《 コスモス、つまる美的秩序をもった宇宙の統一体といっただけでは、そういう宇宙と尽十方体とは違うのである。どこが違うかというと、尽十方世界と呼ばれた宇宙は 仏法世界であり、仏国土なのだということである。 》 107頁

《 ときには、一挙に自分を拡大して、すでに自分が宇宙人間になったものとして、その自分を自己点検するのもよい。 》 112頁

《 というようなことで、拡大した自分、宇宙人間になることだってあるような自分、自分というものの境界線を棄ててしまった自分、山河大地、草木虫魚の友としての 自分が、その自分のあり方を点検する。 》 114頁

《 紫がかった濃紺の背景、それを限りなく美しいと見る人にとって、この背景は単なるバックではない。 》 101頁

 ”何かしらクレーの絵を見ている感じがする。”を受けての一文だが、北一明の茶碗を手にするときの印象に重なる。

 ネットで西東三鬼『神戸・続神戸』新潮文庫が話題になっていた。
  https://www.shinchosha.co.jp/book/101451/
 本棚から『西東三鬼全句集』都市出版社1971年初版を取りだす。『神戸・続神戸』収録を確認。巻末の大岡信の解説「三鬼への小さな花束」を読む。

《 三鬼の死んだ昭和三十七年(彼は四月一日という、まったく三鬼的な日に死んだ)二月に刊行された最後の句集『変身』から句を引いておきたい。

    変な岩を霰(あられ)が打って薄日さす
  (以下略) 》

 この句に北一明の焼きもの『耀変花生』を連想。その1977年の作品は、どの著作にも未掲載。こんなすごい作品が?と思っているところにこの句に出合った。

 午後、友だちと富士宮駅に降りる。駅前から伸びるひっそりした大通りをしばらく歩き、左へ曲がる。「えちぜんや」という看板が見える。そこが白砂勝敏さんの展示場。 お店を抜けた奥がギャラリーになっている。
 https://fujinomiya.gr.jp/event/3362/

 しばし談笑の後、白砂さんに案内されて富士山本宮浅間神社の湧玉池の上にある「掬水」というゲストハウスのカフェへ。湧水を見下ろしながらの話は弾む。
 https://guesthouse-kikusui.com/
 再びまちなかアートをしばし鑑賞。午後六時過ぎ帰宅。

 ネット、うろうろ。

《 言うまでもないが「自分で考える」ためには「異質な他者に拓かれる」必要がある。「自分の正しさ」ではなく「複数の正しさ」を認める必要がある。 他者への傾聴、そして尊重。もし、それがなければ「自分で考えている」と考えることは、妄想にすぎなくなる。 》 中島 智
  https://twitter.com/nakashima001/status/1146725721701617664