『道元との対話』三(閑人亭日録)

  岩田慶治道元との対話 人類学の立場から』講談社学術文庫2000年初版、「第2章 道元の言葉」を読んだ。

《 もちろん、違うジャンルの文章を比較するわけにはいかないけれども、『正法眼蔵』の魅力はそのなかに謎があり、謎を解く鍵がひそんでいるということであろうか。 詩の美しさを超える、あるいはその美しさを否定するものが、そこにあるように思うのである。 》 118頁

《 つまり、禅問答の言葉は日常語ではなくて非日常語、非常語なのである。非常語でなければ、深淵をこえて自他のあいだに架橋し、眼に見える世界と眼に見えない世界 を同時に見て、それがそう見えたということをあるがままに表現することはできない。そこで詩語がこえられているのである。 》 132頁

《 言霊(ことだま)、言葉のうちにひそむ魂、言葉のなかにこもっている宇宙霊、言葉を生き生きと機能させる無限のエナジー、言葉の背後にひろがっている虚空。 言霊によって言葉は単なる言語ではなく、また単なる記号であることをやめて、さらには、単なる象徴であることを超えて、構造をもった生きものになるのである。「一」 になる。 》 134頁

 この論の展開は、全部を引用しなくてはわからないだろう思う。

《 認識人類学の方法の第一歩によこたわる知、認知、分類などと呼ばれる知的行為と、道元における「道得(どうとく)」、つまり知とその表現、あるいは知の言語表現 にふくまれている意味は、同じなのか、違うのか。違うとすればどこが違うのか。 》 139-140頁

《 認識人類学の主張は「言語と世界観」のあいだにかかわっているだけで、そこには「手」がぬけていたのである。手の動き、つまり身体的参加がなければ、言語も、 世界観もともに空中にただようことになる。 》 140頁

《  ひとつの運動の場のなかで、それぞれが緊密にむすびあっていることがわかる。これが認知の場の原型ではないかと思うのである。
  ただし、そうはいっても、ここに不可欠の問題がある。問いと答え、である。 》 140-141頁

《 自分が拳になって、拳が宇宙になって、その宇宙が〈わしは拳だ〉と叫ばなければいけない。つまり、認知という行為は、あるいは知の働きは、ここではそのものに 参与し、そのものと一体化し、そのものの存在、あるいは自他の存在、つまりは宇宙の存在を肯定するという構造をもっているのである。肯定する、然り、という、 自他の存在をあるがままに認める。 》 141頁

《 人間は水をどのように認知しているのか、天人は水を美しい髪飾りのように見做しているのか、そういう外からの見方だけでなく、水が水をどのように認識しているか、 水宇宙が水宇宙をどう思っているか、水のなかに参与して考えてみなければならない。 》 143頁

 レーン・ウィスラースレフ『ソウル・ハンターズ シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』亜紀書房2018年刊へ連想が飛ぶ。

《 私が主張したいのは、(ユカギールでは)狩猟者が獲物をまねるという状況では、主体つまり「私である身体」と、客体つまり「動物の身体」との間の、この概念上の 区別が溶解してしまうということである。そして、狩猟者は主体と客体、自己と他社の両方であるような曖昧なものとして、自らの身体と同様に動物の身体を経験する ようになる。 》 『ソウル・ハンターズ』 166頁

《 エルクは狩猟者の模倣行為を通じて自らの身体を見る──つまりエルクは自らと同じ種を見る。一方、狩猟者は、自らの模倣行為をまねるエルクのふるまいを通じて、 自らの身体の鏡像を見る。換言すれば狩猟者は、彼に向かって歩み寄るエルクを見ているだけではなく、あたかも自分がエルクであるかのように、「外部」から自分自身を 見ている。 》 『ソウル・ハンターズ』 168頁

 人類学の「存在論的転回」。『道元との対話』へ戻る。

《 それはそれとして、道得、つまり言いあてるというのは、単に日常的な言語によって、理論をたてて、筋道をたどり、そのなかに因果関係を封じこめて解説するという ことではなかった。非常語で言う、絶対語で言い切る、根源語を発する。つまり音と耳の働きによって真実をさぐったのである。ところが、見得ということになると、 眼と光によってさぐり当てる。形が見える。現成する形をとらえることが大切なのである。 》 147-148頁

《 知から形へと、道元における思考の中心点が移っていたことは明瞭であろう。 》 148頁

《 そういう怪物としか言いあらわせないような『知の形』かもしれない。そういう『怪物』は、そういう『知』は、おそろしくて同時に愛らしく、醜くて同時に美しく、 逃げだしたくなるようでいて、かえって引きつけられてしまう。 》 151頁

 北一明の焼きもののデスマスクを連想させる。

《 存在の自覚のありかた、それは多分に個性的なものであろう。(中略)道元の場合には、自分の身体が闇のなかに脱落していき、その闇のなかから現成するという 経験をとおして、「言葉」、つまり「音」ではなく「形」が、かれの知の根源をささえていたのである。だからこそ、「その知は形なり、形は山河なり」といいえたので ある。 》 159頁

 味戸ケイコさんの初期の、鉛筆を主にした絵を連想させる。

《 言葉は──言語ではなくて言葉、文字化されたものではなくて音声をともなって語られる言葉──言と言霊(ことだま)のニ部分からなっている。 》 160頁

《 言霊は、さきにも述べたように魂=場所なのであり、精神の空間なのである。柄にたいする地なのである。 》 165頁

《 そういうわけであるから、「画餅にあらざれば充飢の薬なし、画飢にあらざれば人に相逢せず」である。人間のもっとも根源的な願望に応えるものは絵だけであり、 その願望を表現する絵のなかで、人と人、人と仏が出会うのである。
  道元によって絵を描くことは絵そらごとではない、只事ではないということがよくわかった。(中略)
  道元は『正法眼蔵』九十五巻の言葉をついやして、一枚の絵を描こうとしたのである。道元の言葉は、いまや、絵になったのである。 》 197-198頁

 気になり、興味を覚えた箇所を引用。要点を引用したものではない。

《 仏といったり心といったり、実相といったり、言葉の自由すぎる使い方に戸惑われるかもしれない。しかし、大切なことは自分自身が柄から地の世界に参与して、 そういう世界のなかに融けこんで、自分がなくなってしまって、反転してそこから世界を眺め、宇宙を遠望することである。 》 210頁

 ネット、うろうろ。

《 名曲アルバム+「パッヘルベルのカノン」 》 TOU YUBE
  https://www.youtube.com/watch?v=0AJs4n9AoDI&feature=youtu.be

《 表現の不自由展・その後 》 あいちトリエンナーレ
  https://aichitriennale.jp/artist/after-freedom-of-expression.html

《  クリントの例は、従来の美術史の枠外にも、多くの人の関心を集めるアーティストは存在することを証明したように見える。

  美術館は、歴史上の特権階級に属する人々が好んだもののアーカイブという側面を持つ。そこからオブジェクトを選び出し文脈を付与するキュレーターや美術史家など も、高度な教育にアクセスでき、激しい競争を潜り抜けた、ある種の特権階級と言える。これまでの「美術史」とは、彼らのフィルターを通して語られる「物語」のひとつ にしかすぎなかった。/AIはアートの未来を変えるのか? 「アート+テックサミット」で語られたこと 》 美術手帖
  https://bijutsutecho.com/magazine/insight/20093

《 アベノミクスの成果。 》 中野昌宏
  https://twitter.com/nakano0316/status/1147091786285776896

《 週刊実話「下積みメシ」はマシンガンズ滝沢、ゴミ清掃員のバイトについて「何であれ収入さえあれば芸人を辞めなくてすむので、おかしな話ですが、 お笑いをやっていくための資金を稼いでいるような気分でした。」そのバイトが書籍にまでなる。 》 urbansea
  https://twitter.com/urbansea/status/1146806544262033408