『道元との対話』四(閑人亭日録)

  岩田慶治道元との対話 人類学の立場から』講談社学術文庫2000年初版は、「序章 道元との対話」が『道元に出会う』旺文社1986年からの収録。「第1章  『正法眼蔵』を読むとき」以降は『道元の見た宇宙』青土社1984年を収録。去年の夏に読んでいる。一年後の再読になるが、たった三十頁ほどの「第4章 道元の宇宙」 で手こずっている。再三読んで気づいたこと。

《  あらゆる現世の束縛をはなれて、正身端座のかたちをとることによって、おのれ自身を透明な鏡に転化する。それがものを曇りなく見る場所なのである。
  なお、ここで捨てる、離れる、常識を超えるといったことを、違った側面からいえば、時空の仮説を排除する、といってもよい。 》 258頁

 無理。

《 道元における知の折返し地点の所在は、かれの中国におけるある夜の経験にしめされている。いうまでもなく、「身心脱落、脱落身心」という経験である。 》  274-275頁

《 しかし、こういう比喩をつかうと道元の知が誤解される怖れもある。つまり、折返し地点に達したとき、そのときに一挙に全宇宙がその全体像をあらわすのであって、 文字通りに往路と復路があるわけではないからである。別の比喩を使えば、無限の水をたたえた深淵の底に足がふれたとき、そのとき、水中と水上、内と外、諸相と非相が 同時にキラリと見えたのである。二元ではなくて一元の世界が、おのれの足もとから開かれていく。それを実感したのである。 》 276頁

 なんとなく身近に経験したような気がするが、こんな経験したことがない。仏性世界・・・これが言葉ではそういうものかと思うが、実感としては、ない。幻視者、 思想家として、道元はすごいと思う。しかし、「身心脱落、脱落身心」という強烈な経験がない私には、その仏性世界には今のところ縁がないようだ。しかし『正法眼蔵』 を読んだだけで、とても理解できたとはいえない。道元の思考の展開、思想は、じつに広く奥深い。群盲像を評する気分。いや評するではなく、さわるくらい。
 おかしなことだけど、味戸ケイコさんの絵『はてしもなくて』1978年がなぜか思い浮かんでしまう。
  http://web.thn.jp/kbi/ajie.htm

《  この絵には三つの異なる時間・空間が描かれています。一つ目は
  少女の時空です。二つ目は少女の後景の銀河星雲と、そこからはるばる
  飛来したように描かれている紙風船の物体の時空です。三つ目は
  少女の足元の闇から背景の宇宙へと広がっている無限の時空です。
  この三つの異なった時空がダイナミックに組み合わされて、
  一つの画面が構成されていますが、三者はバラバラの存在として
  描かれている訳ではありません。この三つの時空は、
  少女の心の世界の表象として、深く結び付けられています。
  絵の中心に位置するうつむく少女の隠れた瞳は、彼女の心の世界へ
  向けられています。その眼差しは、足元の深い闇に吸い込まれ、
  背景の宇宙を漂流し、銀河を通り抜け、紙風船のように少女の上を
  通り過ぎ、そして遠ざかって行きます。
  何ものにも届かない眼差しの航跡が、見る人の心に深い思いを刻みます。  》
  http://web.thn.jp/kbi/ajhate.htm

 午後、ブックオフ長泉店へ自転車で行く。文庫本を五冊。井上真偽(まぎ)『聖女の毒杯』講談社文庫2018年初版、西岡文彦『簡単すぎる名画鑑賞術』ちくま文庫2011年 初版、松浦寿輝『月の光』中公文庫2018年初版帯付、結城昌治『夜の終る時/熱い死角』ちくま文庫2018年初版、関根享・編『京都迷宮小路』朝日文庫2018年初版、計540円。

 ネット、うろうろ。

《 人間を「図」とし世界を「地」とする既存の人類学を反転させて、人類学は世界(地)から人間(図)を見つめる人間以上の大海に投げ出された。 生命はなぜ自由を謳歌できないのか。何が「浄土」の出現を阻んでいるのか。そうした問いを発しない大海に揺蕩うだけの新しき学は意味がない。【仏教と人類学メモ】 》  奥野 克巳
  https://twitter.com/berayung/status/1148221762103996416