再読『「挫折」の昭和史』補遺一(閑人亭日録)

 山口昌男『「挫折」の昭和史』岩波書店1995年初版、「補遺1 知のダンディズム再考──「エロ事師」たちの精神史」を再読。「トリックスター梅原北明」を軸に 展開される。

《 カーニバル空間こそ、抽象化して、文化の文脈から離脱しがちな絵画芸術に、身体性を回復させる仲介的な文化空間である。身体性を全く欠いた芸術は意外性を 欠落させる恐れが充分にある。 》 343頁上段

《 なかでも、最も多くの芸術的贈与交換を行なったのはフェリシアン・シャンソールという今では忘れられてしまった通俗小説の作家であった。 》 343頁下段

《 この人は、小山内薫が梃入れしていた『女性』に数多くの作品を寄稿していたが、今では全く忘れられている。 》 359下段

 没後知る人がいなくなると「人気だった」と語られる人は稀。「知る人ぞ知る」と語られる人も稀ではあるが、彼らは後世に光が当てられる。伊藤若冲河鍋暁斎、 小原古邨らが好例。梅原北明もそうなるだろう。

《 つまり北明の方法は、北一輝橘孝三郎らの、ある意味では一挙に「中心」(オーソドキシー)を衝こうとするやり方に対し、自ら周縁化することによって、 制度を対象化しよう、脱臼作用を起こさせようと試みるスタイルであったと言えよう。 》 362頁下段

 梅原北明北一輝・・・。北一明をいやがうえでも連想させるなあ。

《  さて、普通こういうことはしないものだが、林達夫のような岩波書店第一書房の間を往還していたハイ・ブラウな存在と、梅原北明のごとき秘密出版に明け暮れた 人物を同じ地平で眺めるとき、日本近代の知が何であったかということがよりいっそう明確に像を結んで来るのではないかと私には思われる。林達夫はたしかに、 旧制高校的帝大教養をたっぷりと身につけて、東京に戻って来た。しかしながら林は、いわゆる官学の中に身を置くことをしなかった。それが戦後の丸山真男らの官学的 リベラリストと異なるところであった。唯物史観に依拠したが、時代には一定の距離を保つ技術を身につけ、複雑な成り立ち方をした東方社に身を置いたこともあった。 この点、海外工業情報所を作ってそこに逃げ込んだ梅原北明と平行関係にあることは興味深い。戦後の林は、平凡社に依拠しつつ、官僚化した日本共産党と距離を置き、 自らを辺境に置くことによって或る種の知的優位性を確保した。従って、林にはたえず中心化した制度と秘かな取引きをするという戦略が働いていた。
  梅原北明には、そうした林の戦略も、制度の側に押しやってしまうような遠心力が働いていた。権力を挑発することによって、自らの無頼性の引き立て役に使って いこうとする高度のパフォーマンスの力が梅原には働いていた。  》 377頁下段

 梅原北明の不敵な力わざには、ただ目を瞠るばかり。林達夫の高尚、高等な学識には舌を巻く。とてもかなわねえ。

 昨夜俄にくしゃみ連発、鼻水。熱目の風呂に入って就寝。丸々十時間寝た。普通に戻ったみたい。雨は昼前に止む。

 ネット、うろうろ。

《 装画はベルギー象徴主義の画家レオン・スピリアールト。《めまい》などが有名ですが、晩年、林というか木の幹を描いた作品をたくさん描いていて、 これがとても良いので、いつか使ってみたいと思っていました。 》 藤原編集室
  https://twitter.com/fujiwara_ed/status/1206768268117041152

 2003年、ブリヂストン美術館で見て印象深かった。来春あるんだ。行かなくては。
  https://www.museum.or.jp/modules/im_event/?controller=event_dtl&input[id]=11775

《  https://mainichi.jp/articles/20191216/k00/00m/010/192000c

  新聞社ってすごいな。
  記者が会見場で直接鋭い質問で追いつめるだけでなく、
  それを元に他の記者が記事を書き、カメラマンが写真を添える、丁々発止のやり取りの何倍もの表現になる。

  どんどん仕事して下さいな 》  buu
  https://twitter.com/buu34/status/1206721244592140288

《  デスク「安倍内閣倒れて、誰が喜ぶんだよ」(真顔)
  記者「国民……」(真顔) 》 中野昌宏 Masahiro Nakano
  https://twitter.com/nakano0316/status/1206592707142897666