福島屋

 昨日の熱海お散歩で坂を降りきる手前で旅館福島屋に遭遇。おお、ここか、としばし感慨に耽る。故種村季弘氏のエッセイ集『晴浴雨浴日記』壺中館1989年を開く。

《 話は変わるが、二月(ふたつき)に一度くらいのわりあいで熱海銀座近くの温泉旅館福島屋で句会をやったことがある。 》 69頁

《 圧巻は熱海銀座十字路の坂を駅寄りに登った左手の福島屋。元湯なので大きな湯舟にこんこんと湯がみなぎっている。 》 147頁

 暖かくなったら行く。

 きょうはゆっくり。年賀状の整理。当選は一枚。あと二枚くらい当たるはずだけど、ま、他の人が当たれば。
 まぶしい夕日。
 おお、大きな月。スーパームーンか。

 ネット、うろうろ。

《 合田佐和子さんの初期の人形作品。富山近代美術館にある瀧口修造のコレクション。なつかしい。★ 》 巖谷國士
 https://twitter.com/papi188920/status/1086943351524405248

 合田佐和子『オブジェ人形』グラフ社1965年初版を開く。画像の向かって左、赤い顔の人形は7頁の8番、右の青い顔の人形は11頁の16番に近い。

《 「新しいけど、懐かしい」という印象をもたらす政治運動しか大きなうねりを作り出すことは出来ません。これは経験的にそうです。 「確かに新しいけど、不気味」でも、「新しぶってるけど、なんか『またかよ』感じがする」もダメ。 「内部にある外部」(@郡司ペギオ)に固有のあの感じなんです。 》 内田樹
 https://twitter.com/levinassien/status/1086888290987368452

 美術作品にも言える。

《 Tカード情報令状なく捜査に提供 規約明記せず、当局は保秘 》 東京新聞
 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2019012001001670.html

 Tカードは無論、キャッシュカードなどカード類はテレフォンカード以外持っていない。

《 本が命を終えるとき─古紙回収のゆくえを追う─ 》 VALUE BOOKS
 https://corporate.valuebooks.jp/endpaper/report/recycled-paper/

《 センター試験の国語冊子を開くと、現代文は「翻訳」をめぐるエッセイ。「僕は…いい加減な人間なので」と始まるふざけた文章で、 なんだか要領を得ないところがあるが、わりと面白く、私の考えにとても近い。誰だい、こんな文章を書いたのは? と不思議に思って、著者名を見ると、 なんと自分だった。 》 Mitsuyoshi Numano
 https://twitter.com/MitsuNumano/status/1086871762476781568

《 考えてみれば、1968年闘争も、半世紀前のことであり、1970年に20歳だった者も、今年は古希を目前にした69歳になる。だから、今の60歳の還暦の人でも、 1968年闘争については、よく知らない人か、全く知らない人が大半だろう。 》 千坂恭二
 https://twitter.com/Chisaka_Kyoji/status/1086803081843564544

《 今の20代の人間にとって1968年闘争は、親どころか祖父母の出来事になるだろう。そして先の戦争は、曾祖父母の代の出来事になる。 そして、これらの別な歴史を体験した世代は、現在も生きている。これは、エルンスト・ブロッホ流にいえば、非同時的同時性というものか。 》 千坂恭二
 https://twitter.com/Chisaka_Kyoji/status/1086807941154406400

《 1970年に20歳だった私が、22歳の最後の月に出したのが『歴史からの黙示』であり、それが昨年、増補改訂新版として復刊された。 それを書いた当時の1970年代初頭のことはよく覚えているが、その半世紀後の今の20代から好意的に迎えられたことは、時を超えた20代の力なのかと思わなくもない。  》 千坂恭二
 https://twitter.com/Chisaka_Kyoji/status/1086809953472368640

 昨日の東京新聞読書欄、「栗原裕一郎さんの3冊の本棚」の三冊目は外山(とやま)恒一『改訂版 全共闘以後』イースト・プレス

《 あさま山荘事件学生運動は終わったという通説に疑義を唱える。終ってなどいない。ずっと続いているのだと、その後から今日まで約五十年の通史を、 運動当事者の視線で書き直してみせた六百ページに及ぶ超大作である(外山はこれでもまだ上っ面だと言っているが)。(以下略) 》

 千坂恭二外山恒一。世代(1950年生まれ、1970年生まれ)も思想も違うが、生きる姿勢など近い気がする。

《 一月も、もう下旬になろうとしていることにあぜんとする。こうも時間の経過が速いと、再来週ぐらいには二十二世紀になっているのではないか。 》 赤城毅
 https://twitter.com/akagitsuyoshi/status/1086944138396762112