『知の自由人たち』二(閑人亭日録)

 山口昌男『知の自由人たち』NHKライブラリー1998年初版、後半を読んだ。

《 今日の学問の形は、一定のパラダイムのなかで、一群の事実に上下関係と因果関係をもたせて、事実間の階層秩序を特定するもので、それは実験を基礎におく近代科学に立脚するものである。これに対し、江戸期以前の知識は、因果関係より事実の曼陀羅的な配慮を重んずるものであった。つまり事実を羅列し、事実をして語らしめ、読む者の 心のうちに生成する曼陀羅の中に位置を占めさせようとするのが江戸の随筆なのである。 》 「第8章 愉楽しての人類学・民俗学 山中共古坪井正五郎」 200-201頁

 「存在論的転回」を予見、示唆している・・・。

《 薩長藩閥政府の進めた中央集権化においては、少数の集団が情報を独占的に集め、「役に立つ、立たぬ」の二元的価値観を基に階層化しようとした。それが統治機構の 生み出すリアリティ(現実)である。(中略)藩閥政府がつくり出したがんじがらめの日常的現実に隙間を見つけて、そこから外に出る。そこに重力圏を脱した新しい現実を作りだす。そのうえで、隙間を拡大し、隙間の数を増やし、内と外の相互交通の可能性を増大させる。それこそ、精神の自由というものではなかろうか。 》 「第9章  逸民たちのアカデミー 集古の人々」 233-234頁

《 もちろん、ただ読み流していたら、この記事から「幕臣ネットワーク」が浮上してくることなど、金輪際あり得なかったであろう。隠された意味を何とか読み解こうとして手間を惜しまない者だけが、この記事から、新しい別のメッセージをつかむことができる。そして、ひとたびその立場にたてば、一見無関係のような各項目から、 いろいろな事実が相寄り、また別のメッセージを探りあてることができるかもしれないのである。 》 「第10章 街のエンサイクロペディスト 大槻如電石井研堂」  268頁

 ネットワークという言葉は、私には何ともすっきりしない言葉だが、この本では交遊圏(ネットワーク)291頁、交流圏(ネットワーク)304頁とあり、気持ちが落ち着く。 大部の著作を読んだ後には、満腹後のデザートのような味わいがある。

 午後、知りあいの未亡人宅で、亡夫の遺作の絵を友だちと見て、来月の遺作展の展示を考える。
 夕方、買い物から帰る時、車の運転席からきれいな声を掛けられる。あ、とこちらもあいさつ。ボイスキューの小坂真智子さん。相変わらず若いわ。

 ネット、うろうろ。

《 森友訴訟、国の全面敗訴が確定  国有地売却額非開示で 》 KYODO
  https://this.kiji.is/587448864229950561?c=39550187727945729

《 オリンピックはスポーツの祭典ではない。広告代理店の税金を使った利潤追求の単なる商売でしかない。参加するアスリートもプロ。サポートする企業も民間。 税金でやる意味はない。そんなにやりたけりゃ、企業が自分たちだけで資金作ってイベントでやれ。税金は福祉や生活のために使ってくれ!! 》 小松崎拓男
  https://twitter.com/takuokomart/status/1214547363701772291

《  廃棄記録もないのに、
  廃棄の日時に加え、「障碍者がやった!」と作業者まで特定して発表。
  これもう犯人安倍じゃん。 》

《 説明も嘘も要らないから、使った税金を返せ 》