『サモトラケのニケ』(閑人亭日録)

  読了した本はほどなく本棚などへ戻すものだが、谷川渥『形象と時間』講談社学術文庫1998年初版だけはいまだに目の届くところにある。そして表紙の彫刻 『サモトラケのニケ』を見る。
 http://musee.louvre.fr/oal/victoiredesamothraceJP/victoiredesamothrace_acc_ja_JP.html
 まるでミューズのよう。この像からさまざまな問題意識が浮かぶからだろう。年を越して気になってる『形象と時間』の一節。

《 さて、このような激しい過去否定と、現在や瞬間、速度や力動性の称揚とにおいて、「物語的時間」はどのようなありようを示しているのだろうか。確かに、 《サモトラケのニケ》におけるような、「特権的瞬間」の表現を支える物語的時間は、未来派作品には見られないといっていいだろう。 》 263頁

《 「普遍的なダイナミズムにおけるある固定された瞬間」とは、まさにあの「特権的瞬間」、《サモトラケのニケ》に典型的なかたちで表現された「カイロス」としての 瞬間以外のなにものでもない。 》 264頁

《  未来派デュシャンも、いずれにせよ物語的言説の過剰によって特徴づけられる。そのことは、かえって作品を支える物語的時間性の危機をあらわしている。しかし それにしても彼らの作品は独自の表象世界を有し、したがって語られる時間と語る時間とをなおともに存立させるのである。
  だが、たとえばリオタールが「ポスト・モダンな芸術家」としてみずからの言説の対象にしたアルベール・エームや、あるいは崇高とアヴァンギャルドとを同時に 語らしめる理論的モデルを求めようとしたバーネット・ニューマンの場合、作品はもはやいかなる出来事をも表象しはしない。そこでは作品自体がいわばひとつの出来事 なのである。換言すれば、作品はただそこに現前するだけで、指向的世界についてなにごとも語りはしない。彼らの作品は、「謎」ですらない。(中略)しかしただ 視覚的出来事たる作品は、ひたすら感覚されることだけを望む。そこにはもとより物語的時間性の介入する余地はありえない。 》 269-270頁

 ここからポスト・モダンが論じられていくのだけれど、私にはこの一節が深く印象付けられた。
  https://k-bijutukan.hatenablog.com/entry/2019/12/05/191628
 アルベール・エームは知らないが、バーネット・ニューマンは知っている。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
 ウィキでも記述されているが、「アンナの光」(DIC川村記念美術館)がアメリカ人に百億円超の値段で売却された。     https://matome.naver.jp/odai/2133688564260969501/2138097124341778603
 あんなもの邪魔なだけだろう。高く売れてよかったな。あれを「崇高」云々と言辞を弄ぶ美術評論家を、私はうさん臭く思っていた。この箇所は、我が意を得たりだった。 第二次大戦後の美術史はどのように語られるのか。アート・ビジネスの力学に追従、翻弄されない見識を求める。芸術作品の価値は、売却値段とは別の次元の価値であるべき と私が吠えても・・・。でも吠える。
 「物語的時間性」。この用語にシビレル。身勝手に私的に利用すれば、美術作品に対する私の価値判断は「物語的時間性」に拠っている、と言える。直観とか直感とか言う 前に、その作品に「物語的時間性」を感じ取れるかどうか、でまず判断される。人物画であれ静物画であれ風景画であれ抽象画であれ、「物語的時間性」を感じ取れるか、で 私の第一の判断はなされる。まあ、単純なな印象判断とも言えよう。けれども知識、経験、直観の混成が、「物語的時間性」を判断する基になっている。技術論は二義的。 これがワタクシ流の判断。
 北一明の茶碗に対する社会学鶴見和子の言葉にうなずく。

《 一碗を通じて人類の歴史を透視する。 》

 朝、源兵衛川中流、三石神社横の茶碗のカケラ、ガラス片を拾う。ずいぶん重くなり、ほぼ回収したので作業を終了。帰宅。一汗。ふう。下着を着替える。
 午後、布団で一休み。ふと携帯を見ると「1月14日 14:44」。
 内田魯庵魯庵日記」講談社文芸文庫1998年初版が目に留まったので手にする。贋物の話が面白い。明治四十三~四十四年。

《 〇贋物を作るにも資本がかヽる。(渡辺)省亭に(菊池)容斎の贋物を書いて貰うと五百円から千円も取られるそうだ。贋物の方が高いかも知れぬ。高が十円や二十円の ものヽ贋物を作ってはそろばんが取れぬわけだ。 》 159頁

《 〇尤も日本の画かきで贋物を作らぬものは無いそうである。足利の田崎草雲など今でこそ一部の人々には画聖のように拝められてるが、本とは贋物作りの名人である そうな。(菊池)容斎なども随分贋物をを作った事があるそうだ。戸田玉秀という男も(大八木)他香と一対の(谷)文晁の贋物師である。 》 161頁

《 考古学や芸術史研究家は別として趣味の為に骨董器玩を翫賞するだけなら自分の趣味を満足させれば足りるので、鑑定家の説など聞くには及ばぬ。 》 164頁

 ネット、うろうろ。

《  ナシーム・ニコラス・タレブの『身銭を切れ』(ダイヤモンド社)の
  「起こることのすべてが、理由があって起こるわけではない。だが、生き残るものはすべて、理由があって生き残る」
  という言葉を重ねあわせると、古典の魅力が良くわかる。古典は世界が若かったときの考えであり、長く生き延びてきた。 》 ヤギワタル
  https://twitter.com/yagiwataru/status/1216891583699664896

《 かなり衝撃を受けたが、共産党の田村智子議員が「桜を見る会」を取り上げた後、安倍首相が衆議院に「1回たりとも」出てきていないという唾棄すべき背信行為を、 全く知らない人が多い。222日に及ぶ昨年の「自民党の審議拒否」といい、国会が骨抜きにされている事実を主権者が知らないのは恐ろしい。 》 異邦人
  https://twitter.com/Narodovlastiye/status/1216738318148177920

《  うんざりするほど、今この国は嘘、嘘、全てが嘘と偽りで塗り固められている。
  ここまで来たら、騙されているのが滑稽に思えるぐらいまるで漫画の世界だけどこれが現実の世界だから笑えない。

  勇気を出して、まっすぐに正直に誠実に生きる事の尊さをしみじみ思う。 》 星に願いを
  https://twitter.com/yumurakami1230/status/1216648153459384322