『近代の〈物神事実〉崇拝について』五(閑人亭日録)

 ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について──ならびに「聖像衝突」』以文社2017年初版、「聖像衝突」を読んだ。

《 聖像破壊(iconoclasme)とは、その破壊行為が何を意味しているのかが分かっており、それが一つの破壊計画として明確に現れ、その動機が何であるかが分かっている 場合である。聖像衝突(iconoclash)または聖像危機(iconocrise)とは、逆に、分からない場合、躊躇する場合であり、補足的な手掛りなしでは破壊的なのか構築的なのか 知ることのできない行為によって動揺している場合である。 》 152-153頁

《 何が最も暴力的だったのだろうか。人類を真の神の崇拝へ導くために偶像を破壊するという、宗教的な熱望だろうか。それとも、人類を良識へ導くために神聖な聖像を 破壊するという、反宗教的な熱望だろうか。これは間違いなく一つの聖像危機である。なぜなら、もし聖像が取るに足らないものであるなら、それは何の影響もなく破壊 されうるのか。〔中略〕それともそれは、あまりにも強力であまりにも脅威を与えるので破壊されなければならないのか。──誰にも分らないのだ。 》 167 頁

《 それでは、なぜ宗教的媒体と科学的媒体を現代美術に混ぜるのだろうか。なぜなら、少なくともそこでは、絵画、インスタレーション、ハプニング、出来事、そして 美術館が、人間的製作によるものであることを疑うことが不可能だからである。仕事をする手が、至る所で目に見える。〔中略〕
  像や絵画や媒体や才能に対する崇拝を構成している各々の要素の抵抗を試験し分析するのに、現代芸術以上の実験室はどこにも見当たらない 》 169頁

《 そして、予想することができたように、ここにはまた別の聖像衝突がある。つまり、多くの地位剥奪と多くの「復位」がある。 》 170頁

《 我々は、宗教的な像を再び皮肉や破壊に委ねたり、再び崇敬の対象として提案してりするために、それらを前衛的な現代芸術の制度の中に持ち込んだのではない。 》  171頁

《 現代芸術の諸作品に関しては、それらがここに展示されているのは、芸術的な展覧会を行うためではなく、多くの媒体と大胆な創造的発意を通じて進められた、表象の 限界と効力についてのこの大々的な実験室的実験の、結論を引き出すことを可能にするためである。 》 171頁

《 私が「物神事実」と呼ぶものを、なぜ破壊するのか。〔中略〕神が全てを作り、人間は何も作らないのか、それとも人間が全ての作業を行い、神は何もしないのか。 一旦物神事実がなくなってしまうと、過剰であるか、過剰に少ないか、そのどちらかである。 》 173頁

《 そう、確かに物神事実は製作されなければならない。人間の手は、どうしても、あらゆる種類の像、絵画、記載物を産出し、客観性や美や神々をなおも作り出し、 迎え入れ、集めようと努めるのだ。〔中略〕この展覧会を通じて私が提起するのは次の問いである。いかにして気が狂れることなくこの二重拘束と共に生きるのか。 我々は気が狂れているのか。この狂気への治療薬は存在するのか。 》 174頁

《 我々の展覧会が新たな聖像破壊的な展覧会ではないということを、いかにして確信するのか。〔中略〕運営委員たちの間では同意見の者は誰もいない。しかし 意見の一致が我々の目的ではない。我々は聖像衝突を追求しているのであり、確信を追求しているのではないのだ。しかしながら、我々の展覧会は、像論争の彼方へ 赴くことができると主張している。〔中略〕いかにしてそれに忠実であることができるのか。
  諸々の像、対象、彫像、記号、文書を、それらが他の像、対象、彫像、記号、文書との間に保っている関係を強調するような仕方で、提示することである。 》 199頁

《 したがって、我々がこの展覧会の中で素描したいと思っている決定的な区別は、像論争の戦士たちが我々に信じさせようとしているような、像の世界と像のない世界を 区別するようなものではなく、像の流れの中断と像の継起の間の区別である。〔中略〕そうではなく、我々は、人々が像の別の諸属性を追及するように──像論争がその 絶え間のない火炎と激高の灰燼の下に埋めてしまった諸属性を追求するように──徐々に仕向けるのである。 》 200頁

《 しかし、より直接的な関係が存在する。宗教的表象と科学的表象によって投影された影は、多くの点で、模倣的表象の問いを通じて西洋の芸術に付きまとった。 》  208頁

《 したがって、ここにはもう一つの逆説、もう一つの聖像危機がある。つまり、現代芸術はこれほど激しく何から逃れようとしたのか。多くの聖像破壊、多くの禁欲主義、 多くの熱意そして更には熱狂は、何を標的にしていたのか。宗教的な聖像と、それら聖像の実在的現前への強迫観念だろうか。 》 208頁

《 一つの展覧会や一つのカタログでは。大したことはできないということを、私は自覚している。しかし、祈ること、知ること、投票すること、集合することなどを 可能にしている諸々の媒体の、弱さと脆さの方へ注意を引くことこそが、『聖像衝突』という「思考の展覧会」の中で我々がしようとしたことである。 》 213頁

 私の関心を惹いた箇所を書き留めた。芸術・・・。芸術作品とは制作から少なくとも五十年後、ふつうは百年後に評価される、評価せざるをえなくなる作品だと思う。 そのような視点で美術作品を見ている。

 午後、市役所へ。源兵衛川の「インフラメンテナンス大賞」農水省部門の優秀賞の報告で、数人で三島市長に十五分面会。来週は静岡県知事に面会予定。

 ネット、うろうろ。

《 非常事態宣言を出すけど非常事態だと思っていない首相・政府与党??? 》 asleep
https://twitter.com/_3___0/status/1349517545007587332

《 うすのろって言葉があるけど、今の日本政府にぴったりだな。 》 津原泰水
https://twitter.com/tsuharayasumi/status/1349398773735202818

《 なんだ。
  やっぱり、やれないと言うことは、わかっているのですね。

  ”「必ずやり切る」と述べたとの報道について「(首相は)そうした表現は使われていない」と否定した” 》 Koichi Kawakami, 川上浩一
https://twitter.com/koichi_kawakami/status/1349419897118363648

《 淫獣の村の自撮り熟女です。 》 マキエマキ@自撮り熟女
https://twitter.com/makiemaki50/status/1349281250717036547