『〈現実〉とは何か』三(閑人亭日録)

 西郷甲矢人(はやと)/田口茂『〈現実〉とは何か  数学・哲学から始まる世界像の転換』筑摩選書2019年初版、「第三章 「現れること」の理論 ──現象学圏論」 を読んだ。

《 われわれの考察の成果は、数学を取り上げることなしには得られなかったものである。ここで問題なのは、「根源的なものとその派生態」という思考図式では 捉えれらない事柄であって、「それでなくても構わない」ようなものが決定的な役割を果たすという、どこにも固定的な繋留点をもつことのない思考が繋留点に頼ろうと するときにその裏をかくような仕方ですでにその思考を貫き成り立たせているような運動を言い表そうとしているのである。 》 「第三章 注(1)」 254頁

《 「物」は現われの変化のなかにはじめて見えてくる。というより現われの変化が織りなすシステムをつかんだとき、われわれは「同一の物」をつかんだと思うのである。 》 98頁

《 さて、前節で述べてきた「変化が織りなすシステム」を数学的に最も一般化仕方で言い表したのが「圏」(category)と呼ばれるものである。われわれが前節で行った ことを言い換えるなら、現われが単に静止像の羅列として見られるのではなく、現われの「圏」と呼びうるようなものを捉えたときに、われわれは「物」を捉えたと考える のである。 》 99頁

《 圏とは、ある種の射のネットワークである。 》 99頁

《 プロセスの等しさを「粗く」とって、「同じ」と言えることは、たとえばものごとを空間的に把握するためには必須である。われわれは「同じ」ものに囲まれた空間に 住んでいると思っているが、この安定的な見方は、つねに異なる不可逆的な特徴を捨象することによってはじめて可能になっている。その根底には、一切の出来事は 不可逆的に進行しているという事実がある。この事実を尊重するのでなければ、数学は現実を十全に捉えることはできない。
  圏論は、まさにこのような現実のあり方を最大限に尊重している。圏論においては、あらゆる概念が、(可逆とはかぎらない)「矢印」を通じて表現される。 》 106頁

《 矢印はいわば不可逆性の象徴であり、イコール(=)は可逆性の象徴である。そもそもの基準においては「等しくない」二つの対象の間に、「行って戻れる」矢印が 双方向に存在するとき(すなわち「可逆」な矢印が存在するとき)、この二つの対象は「本質的に等しい」もの、すなわち「同型」なものとして考えられることになる。 》  106頁

《 このように、「同型」という考えは数学のなかに古来からある発想ともいえるが、あらゆる分野を横断するかたちで、これを「不可逆性を通じて現れる可逆性」として 定式化したのが圏論なのである。 》 108頁

《 すなわち、多様な「現われ」の間の可能な変化のネットワーク(圏)において、その変化が、われわれの置いた基準に関して「可逆」であるときに、その可逆な変化に よってつながっている様々な「現われ」が「同じものの多様な現われ」という形をとるということである。 》 108頁

《 逆に言うと、「多様な現われの間のプロセスの可逆性」こそ、「同じもの」の正体であるとも言える。
  「異」と「同」が二項対立的に初めから与えられているのではなく、自明に「異」な多様な現われのなかに、(われわれの置く基準に応じて)「同」が現われ出てくる、 という洞察が、「圏」の概念を手がかりとして得られたのである。 》 109頁

《 またサイコロの例に戻ると、1の面が見えていて、しばらく回して、また1の面が出てくる。ここで、「また同じ」1の面が出てきたと言えるのはなぜか。 》 110頁

《 ここで言いたいのは、われわれが何かを「同じ」と見なすとき、それが「絶対的な同じさ」である必要はない、ということである。 》 111頁

《 数学におけるイコール(=)も、「絶対的な同じさ」ではなく、むしろそうでないところに意味がある。 》 112頁

《 こうしてわれわれは、「=」というものを「絶対的な同じさがある」というふうに捉えず、「同型」、さらにいえばネットワークとネットワークの間を自由に行き来 できるということとして捉えなおした。 》 117-118頁

《 以下ではこのような「=」の捉え方を明瞭に捉え深めるために、「関手」および「自然変換」という圏論的概念を導入し、それを手がかりとして議論を進めていくことに しよう。 》 118頁

《 「関手」および「自然変換」とは何か。まず端的には関手とは「圏から圏への関係づけ」であり、自然変換とは「関手から関手への関係づけ」、つまり「関係づけから 関係づけへの関係づけ」である。 》 118頁

《 ここまで出てきた圏論の基本概念を一旦まとめておこう。まずわれわれは「変わらないもの」「同じもの」を捉えるために、「現われ」と「現われの変化(動き・ プロセス)」のネットワークを考えることに導かれた。この「現われ」と「現われの変化」を数学的にモデル化したものが、圏における「対象」と「射」であり、それらの なすネットワークこそが圏であった。このネットワーク間の関係づけが、圏から圏への関係づけ=「関手」であり、関手から関手への関係づけが「自然変換」だと述べた。 》  126頁

《 すでに述べたように、場をその個々の局面における現われによらずに捉えようとすることは不毛である。[中略]一方で、個々の表れが粒子的であることをもって、 粒子の描像を場に押し付けてしまう「粒子の実体論」に陥ると、やはり不合理が生じた。 》 131頁

《 われわれは「自然変換」に至ろうとしている。「自然変換」こそが、われわれの捉えようとしているものである。数式はそのきっかけ、手がかりにすぎない。 》 134頁

《 この「変換」は、「現われの変化」という意味ではわれわれが素朴に経験しているものであり、われわれが自明に「知っている」ものですらあるのだが、あまりに 基本的であるがゆえに、自分で使っていることにすら気づかないようなものである。それゆえ、この根源的な思考原理を自覚的に取り出したり厳密に定式化したりすることは できなかった。それを可能にしたのが圏論という現代数学の手法だったのである。 》 134-135頁

 この抜き書きでは何が何やらだろう。私自身そうだ。いや、平易な文章だが、同型、圏論、関手、自然変換を私が一日で理解できるはずがないという自信がある。しかし、 じつに興味深い論述だ。再読必須。

 雨の一日。読書がじっくりできた。

 ネット、うろうろ。

《 this puppy playing with a butterfly is the cutest thing ever 》 Humor And Animals
https://twitter.com/humorandanimals/status/1372925860127313928

《 文章というのは「運動を生け捕りにすること」なので、辞典的正しさでチマチマ直したりすると死んでしまう。 》 千葉雅也
https://twitter.com/masayachiba/status/1373434443612844032

《 無意識が意識的な表現よりも遙かに個性的であるように、個々人に備わっている個別の官能は、イデオロジカルな制約をしぜんに超脱していく。 この表出こそアートの醍醐味。 》 中島 智
https://twitter.com/nakashima001/status/1373369832444358656

《 どうして五輪中止発表をこんなに引っ張るのか疑問に思っていたら、中止発表と同時に株価が暴落するので、その状態では選挙をすると与党候補がぼろ負けするから という説を聴きました。なるほど。このあといくつかの知事選や補選が終わったタイミングで発表ということなのかも知れません。 》 内田樹
https://twitter.com/levinassien/status/1373422822723260418

《 【世界で最も危険な山でスキー滑降】
  世界で最も危険な山と呼ばれるK2。登頂者の4人に1人が命を落とすと言われる標高8600mの山頂から、スキーでの滑降を計画する一人の冒険家が現れた。 》 Brut Japan
https://twitter.com/brutjapan/status/1373424117798510596