『唯識・華厳・空海・西田』十(閑人亭日録)

 竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』青土社2021年初版、「第七章 西田の哲学(ニ) 自他間の根源的構造と当為」を読んだ。

《 自己を超えたものにおいて自己を持つということは、自己の根源の無に徹することであり、その絶対者の自己否定としての無において即今・此処のかけがえのない自己と して成立していることの自覚のなかで生き抜くということである。その意味で、宗教の根源に徹底したときには、かえって現実の歴史形成的世界に生きることになる。 》  280頁

《 この現実世界を生きるのみであるがゆえに、何もそれまでと変わるところはない。しかし自我への執着を離れるがゆえに、物となって見、物となって聞くのであり、 そこでは全身全霊のいのちが展開することになる。まさに全体作用であり、一歩一歩、血滴滴的である。無分別の分別として、分別を尽くすのである。 》 280頁

《 個物は三個以上あって(私と汝に彼が入って)、ということは無数の個物があって、しかもそれらが真に独立する者同士として相互に関係しあい、作用しあう時、 個物の意味は十全になる、という。
  というわけで、互いにまったく独立な主体同士がしかも相互を限定しあうところに、個物の世界があるということになる。その自他間に非連続の連続があるということに なるが、そのことは個物が自己の外に絶対の否定に面するということでもある。つまり、ともに絶対に自由であり主体であるおのおのの個物は、他の個物とは絶対の断絶に おいて相対するのでなければならず、故に相互に絶対の否定に面するということになるわけである。しかもこのことはすなわち、ともに自他を規定・束縛するものの一切ない 絶対の無において成立しているということでなければならないことでもある。絶対の否定とか、非連続の連続とかの語には、自己の底に対してと、自己の外の他個に対しての、 その双方の意味が含まれているであろう。 》 291-292頁

《 このように、真の個物とは、汝を認め、それに相対する私としての自己のことなのであった。私があくまでも私を追求し、汝はどこまでも汝を追求して相い対する時、 そこに絶対の断絶(否定)を認めるのでなければならず、しかもそのことを認めることが私を生かし汝を生かすこととなる。この根本的な構造に立つとき、まさにそれぞれの 主体が創造的にはたらくことが出来るというのである。 》 293-294頁

《 こうして、私と汝が絶対の否定を介してつながる。その絶対の否定をふまえるそのことが、当為である。我々は、一般者の規定を超えて絶対に自由であるが、絶対に自由 であるがゆえに、汝の絶対自由と直面し、それを尊重してこそ私なのであり、汝に対することにおいて、それも複数の、無数の汝に対することによって、自己に死んで 真に生れる。そのとき、絶対に自由であると同時に、どこまでも当為ということを自覚せざるを得ない。 》 296頁

《 自己の底に対してだけでなく、他の人(にん)に対した時に、いったいどのような当為が現れてくるのであろうか。 》 297頁

《 とはいえ、その当為の内容、あるいは真理や客観の内容は、いまだ明瞭とは言えない。西田はあくまでも原理的な構造を明確にしようとしているのであって、その当為の 具体的なありかたは、さらに追求されなければならないであろう。 》 301頁

《 当為とは、私と汝とが人格的に相互に表現し合う中で自覚される「無限なる生命の内容」を内容とするものなのである。 》 302頁

《 西田において歴史的ということは、何も時代がかったことを言うものではない。現実世界における自他の表現的・形成的行為の積み重ねとその展開をいうものなのである。  》 303頁

 易しいようでやはり難しい。当たり前だが。

 ネット、うろうろ。

《 野党が一本化した214選挙区のうち、自民に競り勝った選挙区が62、惜敗したが1万票以内まで自民を追い込んだ選挙区が32。
  共闘が成果をあげたのはこの数字からも疑いない。
  さらに共闘を発展させる上での課題はあるが、今回の結果をもって「共闘失敗」と断ずる一部メディアの主張は根拠がない。 》 志位和夫
https://twitter.com/shiikazuo/status/1455680446520463362

《 誰が野党共闘をやめさせたがっているか。自民党とその応援団の一部メディアだ。それは共闘の威力を証明するものとなっている。 》 志位和夫
https://twitter.com/shiikazuo/status/1455712714760749058