『今日のアニミズム』二(閑人亭日録)

 奥野克巳・清水高志『今日のアニミズム以文社2021年初版、清水高志「第二章 トライコトミー(Trichotomy)(三分法)、神、アニミズム」を読んだ。
 http://www.ibunsha.co.jp/new-titles/978-4753103669/

《 科学の対象を関係づけ、記述する主体が、その主体と切り離されてもともと存在している対象についての知識を得ていくのが科学であるという近代人の思考は、実は その過程において起こっているさまざまな複雑な主体と対象の交錯、一と多の交錯を隠蔽しており、実態とはかけ離れたものであるといわざるを得ない。 アクター・ネットワーク論による分析は、それら複数の二項対立の潜在的な協働を可視化しときに組み換える方法を提示してみせているのである。 》 71-72頁

《 近代的思考の批判として、それは確かに有効なのだが、「主体/客体」という二項対立の調停が、そこではあくまでも状況依存的に行われており、その変化を前提と している。そして主体も対象も、お互いの関係を通じて現れるという、非常に相関的、関係的、主客混淆的なあり方をしている。「今・ここ」における端的な対象、あるいは 自然の、独立した現われがそこでは、いまだ捉えられていないのだ。 》 73頁

《 アクター・ネットワーク論で扱われたような主客混淆の状況論においては、複数の主体のアプローチは対象としてのアクターXを《作るもの》として働いていた。 一即多、多即一の世界は、《作られるもの》が個々の状況を超えてどこまでも《作るもの》でもあり、より精確にはそのどちらにも一方的に還元されないような、対象世界 そのものがそれを生み出しつつ遍満するさまざまな主体の輻輳する働きでもあるような世界であるだろう。主体は一なるものでありながら、世界そのものを《作るもの》と しての主体、あるいは主体たちとそのままで別のものではない。──そうしたものとして働き、またみずからも《作る》。これはいわば、汎生命的な世界の網の目でもある。 アニミズムが直覚している世界とは、まさにこのような充満の世界ではないだろうか。 》 78-79頁

《 これまで述べられてきたように、状況に非依存的であるということは、過去や未来という時系列の変化にかかわりない、端的な対象がはじめてこの場に現れるということ でもある。この対象は、「今」における端的な他者存在でもあるのだ。 》 79頁

《 自覚的、段階的にここまでの局面にまで展開する思考を、ここでトライコトミー trichotomy と命名することにしたい。 》 80頁

《 ここではほんの部分的な例を挙げたにとどまるが、道元が語っているさまざまな言葉は、まさにトライコトミー trichotomy 的な構造において、複数の二項対立を 組み合わせながら、当初の二項対立そのものをそれぞれの局面で鮮やかに調停する論理をしめしているのである。 》 89頁

 道元正法眼蔵』が引用されているが、これらの一節は記憶に鮮やか。じつに面白い。興奮する。

 ネット、うろうろ。

《 必要なことが書いてあるだけの情報的文章に書き込みを繰り返すことで、生命が宿り始め、それ以上動かせない何ものかになる。このジャンプ、 この創発とは何なのだろうと思う。たぶん問題はリズムだ。書き込みによって作っているのはリズムだ。 》 千葉雅也
https://twitter.com/masayachiba/status/1491581953589788675

《 事実を改竄して神話に戻すのは歴史学じゃなくて(タチの悪い)宗教ですね。そんな宗教が権力者と結託して人殺しの免罪符になってきた事こそ、歴史学が解明してきた こと。 》 m-take
https://twitter.com/takeonomado/status/1491581009170612224

《 「今西錦司ダーウィンの競争原理に基づく進化論とは全く違う「棲み分け理論」を提唱しています。進化とは「棲み分けの密度化」だとしています。 つまり、個体が増えていけば、競争し合ってひとつが生き残るのではなく、共存できるように知恵を絞るということです。」山極壽一
  https://bizzine.jp/article/detail/6981 》 中島 智
https://twitter.com/nakashima001/status/1491480991537369089