塚本邦雄監修『現代詩コレクション』書肆季節社1990年12月1日上梓を久しぶりに開く。八百六十頁超の厚い本に知らない詩人、知らない詩がいっぱい。大岡信の詩は 五篇が選ばれている。「大佐とわたし」「地名論」「石と彫刻家」「壜とコップのある」「少年」。「石と彫刻家」全篇。
石の彫刻が
世界中で叫びをあげている
おれたちにください 時の中で朽ちるいのちを
くださいおれたちに 消滅の恍惚を……
石の乳房はふるえない
それは閉ざされた瞳 冬の瞑想
彫刻家は石に水をたらし
ふるえる光を天から呼び寄せ
石の脳髄 石のへそをさぐりながら
重たい槌をふりあげる
それはただ
胸に迫るあの叫び声をききたいばかりに……
くださいおれたちに 時の中で朽ちるいのちを
おれたちにください 消滅の恍惚を
『大岡信詩集』一九六八・二 思潮社
大岡信の前の収録詩は岩成達也「法華寺にて」(『レオナルドの船に関する断片補足』一九六九・四 思潮社、収録)。思潮社まで行って買ったのか覚えていないが、 十一月一日に出た復刻版二五○部を購入。とくにしびれたのは「マリア・船粒・その他に関する手紙のための断片」。第一連冒頭二行、最終連の前と最終連。
想い出や夢のなかで、海が向うの方へとひいていくとき、
そこらには一面に荒れた岩場のようなものがあらわれてくる。
※
以上によって。
被昇天マリアは、何故皮膚病であらねばならないか。それ
は多分、マリアの被昇天、つまりマリアが昇天をうけざるを
えないという、まさにそのことのなかにある、とあたしには
想われる。では何故、マリアにおいて被昇天以外のなにもの
も生じえないか。それは、マリアが、おそらくは拡がりと時
称をもちつつも、なお、ひとつの形骸深渕、つまりは、皮膚
病そのものであるからである。だが、これらのことは、あた
しにとつて、決して明白にもまた脈絡をもつても、あらわれ
ることはないであろう。
※
それは、くみつくされるとき、海や岩場に似たものになる。
海や岩場に似たものは、あるときには、そのあたりに、なに
か残光のように、一種船粒様のものをよびおこす。それから
それは、その海や船粒にとつて、同時に拡散しながら、いつ
でも向うの方、もつと荒れたくらがりの方へと昇つていく。
この岩場の描写が今日に至るまでずっと心に残っている。
それにしてもつくづく思う。自分の審美眼の偏向、批評眼の狭さ、浅さを。選ばれた理由がわからない詩が多い。まえがきの結び。
《 詩人の運命、詩作品の評価について私は深く考へ、あまりにも不可解な要素の多さに立竦む。いつの日かまた、輝けるマイナー・ポエットの詞華集が編みたい。 》
未知の詩人、山田孝の詩から一行詩「憧憬」。
あしのうらがふと空に憧れた、僕はつまづいてひっくりかえる。
『かっぱの皿』一九五四・八 時間社
六年前に取り上げている。
https://k-bijutukan.hatenablog.com/entry/20160413/p1
昼過ぎ、源兵衛川中流部、三石神社横で茶碗のカケラ、ガラス片を拾う。雨が振りそうな雲行きなので早めに上がり、帰宅。洗濯物を取り込む。ネットを見ると、ここだけ 局地的な雨雲。あれあれ、通り雨。
ネット、うろうろ。
《 冬の山は一晩でこうなる。 》 階段巡りツイッター
https://twitter.com/kaidanmeguri/status/1496664220053565440
《 21世紀の廃仏毀釈は既に始まっているとの思いを強くします。 》 m-take
https://twitter.com/takeonomado/status/1496703897330544640
《 結局、構造というのはレヴィ=ストロースにおいては媒介、縮約のうちの縮約のことで、非還元、第三項が一巡するということだよね。第三項が方法的にでてくる前は ヤコブソンがいうように、あるいはディグナーガが想定するように二項対立による弁別を図ってそれを第三項で修正していこうとするわけだ。 》 清水高志
https://twitter.com/omnivalence/status/1496514816802193410
《 還元主義やその因果づけでなければ構造的ということで、実は仏教もまるまるそういう思考をしてる。 》 清水高志
https://twitter.com/omnivalence/status/1496514817792036864
《 いったいどういうセンスで権力を持つエラい人が民間人やRTをするひとを名誉毀損の裁判するのか?こういうのが全くわからないのです。教えて下さい。 イシンジャー? 》 水道橋博士
https://twitter.com/s_hakase/status/1496479102001643520