藤富保男の詩・つづき(閑人亭日録)

 主宰者の御沓幸正氏から恵まれた同人誌『吟遊星 No.5 藤富保男特別号』吟遊星団1978年6月30日発行を久しぶりに開く。ほぼ全頁80余頁が藤富保男の特集。寄稿者は 加藤郁乎、窪田般彌、川崎洋、多田智満子、奥成達飯田善国白石かずこ諏訪優ほか錚々たる顔ぶれ。冒頭の詩「都」についている副題。
《  一連の軽業詩   》
 言い得て妙、だが、それだけではないと思う。窪田般彌「ナンバー・エイト藤富保男」から。

《 藤富保男の詩を読んでいると、ユーモアや諧謔や笑いがふんだんの撒き散らされているのに、一瞬非常な孤独感に襲われることがある。私はこの孤独感を肌身に感じた ときに、藤富保男の詩に何とも言えぬ親しみを覚えないではいられない。

   一人の人間のなかの孤独は
   どこまでであるか と規定できるか

  彼は詩を書きながら、つねにこんな言葉をつぶやいているのではないか。 》 11頁上段

《  声というのは元来まるいもので
   例えば 今 叫ぶとする
   何か口のまわりが発毛期のように恥しくなって
   0のようなものが前方に出発する
   という形をとるのである

  これは「迷宮」と題する詩の一節だけれども、「0のようなものが前方に出発する」などという一行を口にすれば、サッカー選手ないしはレフリーとしての詩人の姿が 彷彿としてくる。ただ、私はスポーツといえばサッカーよりはラグビーを思い浮かべがちな人間なので、「0のようなもの」が円形ではなく楕円形に見えてくる。楕円の球は どこに轉がっていくかわからない。 》 11頁下段

《 彼はこの球を「正確に」、かつ「曖昧に」、どこにパスするだろうか。彼の距離の測定や判断は、マックス・ジャコブやピエール・ルヴェルディの詩論以上に ポエティックだ。藤富保男はそうしたナンバー・エイトの一人である。 》 12頁上段

 鶴岡善久「藤富さんの詩」から。

《 さて藤富さんは一貫して日本の詩の「ヘリ」を歩いてきた詩人だ。日本の詩は伝統的に悲劇なのである。朔太郎も伊東静雄もはたまた立原道造さえ悲劇の歌をつむいだ。 思いのたけを悲劇的に武装して歌いあげることが詩人とその流通性への近道であったのだ。藤富さんは一筋にこのような中心に対して、ヘリを歩いてきた貴重な詩人だと 思う。 》 55-56頁

《 藤富さんの詩は一見ナンセンスにみえる。しかしそのナンセンス風な詩句の奥には意外に深い洞察がふくまれている。「付き合いは本当は矢だ」これはいわば藤富さんの 「哲学」である。(引用者・略)「焼けば煙が出る/世話を/皺にしてまるめて火をつけている坊主が」とか「急がば回転せよ/とばかり 思いは裏側へと」というような 詩句を読んでいると藤富さんの人生への洞察は「禅」であるようにも思う。「一銭、一毛無きをこそ禅の眼とはしたれ」(狂・布施無経)。まことに藤富さんのナンセンスは 「禅の眼」とほとんど等価なのである。 》 57-58頁

 昨日浮かんだこと(道元正法眼蔵』と藤富保男の詩の通底)を思う。

 ギャラリー・オーナーから招待を受けてMuseum SHIRASUNA FUJIへ行く。オーナーの小澤さんと作品を鑑賞しながら談笑。いい雰囲気の展示室だ。 途中から白砂さんも合流。午後七時過ぎ帰宅。
 https://shirasuna-k.com/gallery-2/museum-shirasuna-fuji/