『森は考える』七(閑人亭日録)

 エドゥアルド・コーン『森は考える  人間的なものを超えた人類学』亜紀書房2016年3刷、「第三章 魂=盲」を読んだ。以下、メモ。

《 生命もまた、自己という質が身体化される特定の座の制約を超えて広がる。生命が潜在的に存在できるのは、何らかの記号論的な系統のうちであって、後続の自己を 左右するような仕方で諸自己がほかの諸自己を表象するありようのおかげなのである。 》 185-186頁

《 つまり、この諸自己の生態学では、自己に留まるために、全ての自己はこの宇宙に住まう魂をもつほかの諸自己の霊質を認識しなければならない。この諸自己の生態学に おいて、魂を所有するほかの自己に気づき、またそれらと関わりあうことのできない状態に陥る、魂の喪失という衰弱している形式を記述するために、私は「魂=盲」 (ソウル・ブラインドネス)いう言葉を選んだ。(引用者・略)ただこの諸自己の生態学においては、全ての自己は魂を持っているために、魂=盲は単なる人間的な問題では ない。それは、宇宙的な問題なのである。 》 206頁

《 なぜ、動物たちは狩猟者ではなく私のほうへ向かってきたのかを尋ねると、答えはこうだった。女性と同じく私は武装していないので、動物たちは私を危険な捕食者とは 見なさず、私がいることに怯えていなかったのだと。 》 220頁

《 人類学は私たちが自文化を超えていくことを可能にするが、私たちは決して人間的なるものから大きく離れることはない。私たちが足を踏み入れるとされるものは、常に ほかの文化だからである。ところがアヴィラの内省的な異化の技法やルナの人類学的な散策の形式は、異なる文化への旅にではなく、異なるたぐいの身体を受け入れる ことに基づいている。ここでは文化ではなく自然こそが奇妙なものとなる。身体は多様かつ可変的なものであり、人間の身体は自己が宿る様々なたぐいの身体のひとつに すぎない。この人間的なるものを異化する形式を通じて、どのような人類学が姿を現しうるのだろうか。 》 220-221頁

《 昆虫を食べられる物だと見たり、腐敗したものを甘味と見たりすることは、他なるたぐいの身体化することである。コオロギとしてのアリや、甘味としての腐った コンドルのパカイを食べるとき、私たちは自らの身体を出て、他なる諸存在の身体へと足を踏み入れる。そのようにして私たちは、別のたぐいの身体化の備わる視点、 主格である〈私〉から、異なる世界を見るのである。束の間、私たちは異なる自然に生きることができる。 》 222頁

 彼岸の入り。朝から小雨。何日か振りで暖房を入れる。

 ネット、うろうろ。

《 【今日の一句】

  毎年よ彼岸の入りに寒いのは 正岡子規 》 きっこ
https://twitter.com/kikko_no_blog/status/1504577617038438413

《 意味はわからないが完璧な面白さ。 》 大袈裟太郎/Togo Inomata
https://twitter.com/oogesatarou/status/1504486012311187460

《 買いかえるたびに思うんです。このスポンジこんなに穏やかな顔してたんだなって。 》 ぬか
https://twitter.com/nukakonoe/status/1504373851308068866