『森は考える』九(閑人亭日録)

 エドゥアルド・コーン『森は考える  人間的なものを超えた人類学』亜紀書房2016年3刷、「第五章 形式の労なき効力」を読んだ。論述は多岐にわたり、かつ、 「形式の労なき効力」という主題に収束する。付箋は林立するが、引用に迷う。で、結びのページから引く。

《 このことと、そしてここで議論してきたいくつかの形式の増殖と並べて夢見を考察することで、私は自らの夢がいったいどの程度本当に私自身のものであったか不思議に 思うようになった。おそらく束の間、私の思考は森が思考する方法とひとつになっていた。おそらく、レヴィ=ストロースにとっての神話のように、「彼ら自身には 知られることはなく、人間において思考する」、こうした夢に関わる何かがあるのだろう。それゆえ、夢見もおそらく、野生のまま動くひとつの思考──人間的なるものを 超えた人間的な思考の形式であり、それゆえに人間的なるものを超えた人類学の核心にあるもの──なのだろう。夢見は何らかの「野生の思考」である。それ自体の目的には 得られない思考、そしてそれゆえに、浸透するようになった形式の遊びへの感度が高い思考型の形式である。私の場合、そしてアヴィラ・ルナの場合では、複数種、ある アマゾニアの森の記憶を多く含んだ野生種(ウィルダネス)のうちに、とらえられ、増殖された思考の形式である。 》 325頁

 ネット、うろうろ。

《 政府の不手際で国民の資産が行方不明になっているのに、担当大臣が「原因特定は困難」などと居直っても、まかり通る国になってしまった。

  昔の日本は違ったはず。新聞やテレビが「国民への背任」として批判していたはず。だが今は違う。新聞やテレビが「幕引き」に加担する。 》 山崎 雅弘
https://twitter.com/mas__yamazaki/status/1505157418858483712