手びねりの形態(閑人亭日録)

 昼前、久しぶりに晴れ間が見えたので、北一明の茶碗を卓上に置く。
 北一明の陶芸作品を本の写真印刷で見るのと現物を手に間近に見るのでは、印象がまるで違う。絵画でもそうだが、北一明の焼きものの場合、それが顕著になる。 また、茶碗でもロクロ成形のものよりも手びねりのほうにより目が向く。ロクロ成形は間然するところがない見事なかたちではあるが、長い間ずっと見つめることはない。 手びねりによる表面の複雑な湾曲と遊色(釉薬の変幻)に惹きつけられる。晴天曇天直射光間接光によっても印象は違う。おそらく手びねりによる陰影と釉薬の光彩が時と 場所によって限りなく微妙に変化するからだろう。これは体験するしかない。それが小芸術作品であることも、効いている。両手に余る芸術作品への関心が薄れた。歳かな。 いや、小は大を制する、だ。それは味戸ケイコさんの小さな絵にも言える。芸術作品の価値は大小ではない。商品価値は、それはそれで別。
 商品価値のある作品をどうこう言うつもりはない。私は商品価値ではなく、自分の好みであり、かつ美術作品として価値があると判断した作品を主に買っている。 有名作家の美術作品は所有していない。そういう作品は、金持ちが購入すればいい。オークションでの落札価格が高い作品と美術の価値とは比例しない、が私の考え。
 何よりも興奮するのは、優れた(と自分が思う)美術作品に出合ったとき。小原古邨はその一例。前世紀末、地元のギャラリーで木版画に出合ったとき、名前の読み方も わからないが、その木版画に驚いた。即購入。
 http://web.thn.jp/kbi/koson.htm
 美術に限らず何でもそうだが、発見ほど面白いことはない。そこにある、その魅力に気づかれないモノ。それが面白い。

 午後、源兵衛川中流、下源兵衛橋上流の茶碗のカケラ、ガラス片を拾う。重くなって終了。橋の周囲にヒメツルソバを見つけ、根こそぎ抜く。土のう袋の上に押し込む。 自転車の荷台に載せて無事帰宅。ふう。一汗。牛乳が旨い。一休み。

 ネット、うろうろ。

《 芸術という行為、その衝動について、たんに暇人による余暇をもて余した遊びだと誤解されることがある。もしそうなら、アフリカに芸術衝動はないことになる。 以前も書いたけれど、セヌフォ族社会で確認したように、彼らは無為でいてもなお暇ではない。暇というのは〈予定〉をもつ慣習によって生まれる。 》 中島 智
https://twitter.com/nakashima001/status/1516170362160963586

《 「このままでは“アート後進国”のレッテルを貼られる」日本のアート振興に税制改正が必要なワケ アートコレクターの提言【ドキュメンタリー解放区】 》  TBS NEWS DIG
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/21026?display=1

《 そもそもが「抑止力」などという嘘の看板を掲げて人殺しのための武器兵器を製造販売して金儲けしてるクソ企業を有する「戦争ビジネス大国」がすべての元凶だろ?   戦争で金儲けしてるクソ企業と、そんなクソ企業をスポンサーとして丸抱えしたクソ大国が消滅しない限り、世界から戦争はなくならない。 》 きっこ
https://twitter.com/kikko_no_blog/status/1516033890464370692

《 人類がこの世から無くすべきもの。
  ・戦争
  ・原発
  ・奴隷
  それまで今の文明が続くかどうか知らないが。 》 m-take
https://twitter.com/takeonomado/status/1516102144960921602?cxt=HHwWhIDUmci3o4oqAAAA