『飛鳥大和 美の巡礼』五(閑人亭日録)

 栗田勇『飛鳥大和 美の巡礼』新潮社1978年初版、「六 竜樹の下に」を読んだ。

《 アルタミラにかぎらず、古墳についても、そこに描いた意識構造がしばしば忘れられている。だが、絵画もまた、言語の発生と同じく古いことが知られているが、 言語が、聞かれるばかりのために存在するのではなく、発声することによってひとつの世界が構築されるのと同様に、絵画を描く行為は、たんに現実の部分を記録したり、 偶然、なんらかの断片で空間を埋めることに意味があったわけではない。絵画もまた、描く行為によって、はじめて世界の了解が可能になった。(引用者・略)アルタミラに 牛を描いた狩人は、おそらく、それを描きながら、じつは、ひとつのフィクショナルな世界を、はじめて追体験したといえる。そのとき、狩人は、ただ獲物を求める人物では なく、人間という名のイメージを確立していた。 》 92頁

《 こうした背景を考えると、いちがいにわが古代における仏教の受容を単純明確に考えるわけにはゆかなくなる。国家宗教としての仏教というものも、組織宗教としての 仏教が、律令国家制度に合致したというような、はなはだ抽象的な類比はほとんど意味がないし、またたんに先進思想として利用したという当世風の解釈も、きわめて低俗と いわねばならない。
  私には、古代社会が、国家として権力を集中していくうえでの、むしろ、正統性の保証、道徳的な基礎としてのエネルギーが求められたと考える。聖徳太子が、憲法に モラルを据えたのは、それなくして、国家権力を合理化しえないという共同体の必要条件があったからである。 》 105頁

 「七 現世の荘厳」を読んだ。蒙が啓かれる。

《 ここで、私のいいたいのは、古墳時代の日本はこのようなスケールと、洗練された様式をもった建築をつくる発達した文化をもっていた。それは建築の技術面に かぎられるのではなく、とかく、原始的とも古拙とも思われがちな、古墳の土木的世界を孕み、一方では地上にそびえるひとつのコスモスが、目に見えるものとしても、 見えない情念の世界にもすでに準備されていたことの確認である。
  そして、日本古来の、古墳と神社建築になかった壁画の出現には、地上の見事な、仏教建築の成果の反映が必要だったのである。 》 108頁

《 私たちは、現実という言葉は、意味づけもなく、範囲もない、ただ延長しているなかの、自分の利害にかかわりのある関係だけを判断停止して認めるときにだけ用いる。 というのは、じつは、私たちのコスモスが、自然科学的な延長、あるいは、利益追求の法則性によって形成されているこおtの反映なのである。だが古代のリアリティとは、 すでに繰返し指摘されているように「精神的秩序」によってはじめて成立したものである。 》 114-115頁

《 このように、飛鳥の宗教的なる空間は、きわめて強い、「常世」または「浄土」のイメージが、近代宗教に欠くべからざる断絶感、疎外感とその浦がえしの飛躍なしに、 いわば彼岸を此岸的なるものとして現実化していたといえる。「彼岸のリアリティ」がその生を埋めていたのである。 》 116頁

《 このようなイメージは、たとえば、法隆寺四天王寺の建造においても、王城の荘厳としても、強く当代の人の心にやきついていた。それがいかに現実的にみえようと、 今日いうところの現実ではなく、むしろ、あるべき現実ということであった。そこから、あるべき自然の相という考え、すなわち、秩序あるコスモスとしての自然の イメージが根拠づけられるのは当然であり、また逆に、そのように昇華されたリアリティとしての自然のなかにおいての救済ということが帰結した。東洋における自然崇拝と いわれるものも、たんある没入ではなく、じつは、コスモスの確認であり、世界イメージの具体化であった。ここから、神仙思想や山岳思想への道は遠くない、というよりも、 その根をひとつにしているといってもいい。 》 120頁

 昼過ぎ、源兵衛川中流部、三石神社横の茶碗のカケラ、ガラス片を拾う。小さい破片ばかり。秋になるとまた湧くかな。曇天だが一汗。

 ネット、うろうろ。

《 「私」がいっぱい(パート1.5)【2】 》 ORGON 中原紀生
https://note.com/nakaharaorion/n/n6f17e3cf4547