月刊『太陽』1993年11月号再読(閑人亭日録)

 月刊『太陽』1993年11月号「特集 現代美術 入門講座」平凡社1993年11月12日発行を再読。表紙は村上隆『B.P.〈バカボンのパパ〉』。巻頭の「横尾忠則 現代美術を歩く 美術館は直感で見ろ」がやはり面白い。川村記念美術館での感想。冒頭から。

 クルト・シュヴィッタース『切られた卵』について。
《 民芸品みたいだね。お土産の鳩と入れ替えてもいいくらいだ。 》 8頁上段
 エンツォ・クッキ『無題(黄色の壁)』について。
《 ファミコンロールプレイング・ゲームみたいだな。 》 8頁中段
 ロバート・ライマン『アシスタント』について。
《 子どもの頃の泥遊びみたいな、ひどく触感的な感じがあるよ。ただ彼のコンセプトなんて聞いちゃったらガッカリだけど。 》 8頁下段
 フランク・ステラの部屋で。
《 最近のステラって、自由を装っているようだ。偶然まで計算していますよね。これって「遊び」の制度化だよ。 》 9頁下段

《 美術館でアートをどう見たらよいか、というのがぼくに与えられたテーマだ。(引用者・略)
  ぼくはこの仕事の依頼があったととき、実は躊躇したのである。(引用者・略)つまり「現代美術はもう面白くない」という実感なんだ。(引用者・略)
  では率直に言おう。現代美術があまりにも観念的になってしまったからだ。言語的かつ論理的になり、分析と解析によって知的に認識することがあたかも美術の使命で あるかのように錯覚を起こさせているところが気になるのである。
  それが一体何の役に立つというのだろう。またいつの間にかアーチストは思想家になってしまったのだろう。思想は思想家にまかせればいいじゃないか。アーチストが 思想を持つのは悪いというのではない。作品を思想化させることにどれほどの意味があるというのだろう。 》 10上段~下段頁

《 次の「ロスコの部屋」でぼくはステラの呪縛から解放されて、龍安寺の石庭を彷彿させる宇宙感覚を必死で充電させるのにせいいっぱいだった。もうひとつぼくの心を 獲えたのはカンディンスキーやマレービッチ、そしてコーネルの箱の小品だった。コーネルには魂の無垢と死のユートピアが息づいていた。ぼくが親しみと刺激と勇気を 与えられた作品はこれみよがしの観念的な現代美術でなかったことに、何かしら希望のようなものを感じたが、その大部分が残念ながら二○世紀初頭のものばかりである というのも皮肉だ。 》 11頁下段

 続く森村泰昌『新・戦後美術史概説』も読ませる。

《 私はアンディ・ウォーホルの作品の多くが、もはや影を持っていないことに注目したい。彼の「キャンベル・スープ」はぺらぺらで影の入る余地がない。 「マリリン」には蛍光インクも用いられている。それは自ら発光する光と化した影なのである。レンブラントに始まった「光の系譜」は、ウォーホルに至って、光量が マキシムに達したと私は思う。そのまま私達は光のなかに突っ走ることになりそうだ。 》 「光の系譜 アンディ・ウォーホル」 20頁

《 白人社会でなくなったアメリカにおける美術。それはどんなものになるだろうか。 》 「アメリカの行方」 27頁上段

《 ではどういったものが残されていくだろうか。
  ポロックは極めて重要な画家として位置づけられる。(引用者・略)
  もう一人マーク・ロスコをあげておきたい。 》 「アメリカの行方」 27頁中段

《 アンディ・ウォーホルはどうか。ウォーホルのようなスーパースターでさえ、価値観の激変の中ではその美術史上のポジションが安泰かどうかは怪しい。 》  「アメリカの行方」27頁下段

《 キース・ヘリングとロバート・メイプルソープは、エイズという「時代」を運命として担った美術家として長く世に伝えられるに違いない。 》 「アメリカの行方」 27頁下段

《 ボイスにおける作品の有りようもまた特異である。ボイスの作品は正確には作品と言えない。ボイスが影を落とすのでなければなんの変哲もない脂肪や鉛やフェルトの 塊、それらはボイスその人を憶い出すための形見の品々である。ボイスにとって作品は重要ではない、という以上に廃棄されるべきものである。作品という物質ではなく ボイスは精神としての芸術を実践し続けた。ボイスの作品、というものがあるとすればそれはボイス自身ということであろう。

  とにかくボイスは巨大だった。人間の行為のすべてに関与し、ユーラシアなどという宇宙的ビジョンにまで至ったボイス。ボイスとは芸術に魂を売った偉大な悪魔で あろう。そして悪魔はいつも人を引きつけてやまない。 》 「作品になった人 ヨーゼフ・ボイス」 30頁下段

《 そしてその場合キャッチフレイズがあると話題になりやすい。ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート、ポスト・モダニズム、シミュレーショニズム他様々な キャッチフレイズが紹介され、そのたびごとにミニマル・アーティスト、コンセプチュアル・アーティスト、ポスト・モダニスト、シミュレーショニスト(と実際に呼ばれた かどうかはともかく)が、その時代を映す鏡として登場した。それはそれで間違いではないが、あまりに大雑把すぎるのも確かだろう。(引用者・略)つまりタレルの作品は 作者の意図とは無関係にミニマル・アートの、コンセプチュアル・アートの、そしてポスト・モダニズムの「周辺的な現れ」としていつも位置づけられてきた。メジャーに 対するマイナーとして捉えられてしまうのだ。ブルース・ナウマンもしかりである。 》 「イズムの周辺 ジェームス・タレル/ブルース・ナウマン」 32頁下段

 首肯するところの多い二人の論述だ。森村泰昌『新・戦後美術史概説』は日本編へ続き、他の著者も書き、今読むとまた興味深い。引用はここまで。

 午後一時前、曇天から一転暴風雨に。台風が来た。三十分ほどで止む。間欠的に風雨。晩には止む。

 ネット、うろうろ。

《 「国葬(こくそう)」をアナグラムすると「嘘こく(うそこく)」、ネーミング的には1年間に118回も国会で大嘘を垂れ流した恥知らずにピッタリの葬儀だと思う。 もちろん、こんな国賊のために1円でも税金が使われることなど、あたしは絶対に許さないが。 》 きっこ
https://twitter.com/kikko_no_blog/status/1558063262112964608

《 ▼西日本新聞の一面と三面は「旧統一教会と政界」。〈内閣改造当日の10日、入閣者にA4用紙1枚の「就任記者会見冒頭発言メモ」が送られる。教団との関係が分かった 場合に「当該団体について認識を欠き、申し訳なく存じます」「今後は一切関係を持たないとお約束したい」とする例文が記載されていた。〉 》 有田芳生
https://twitter.com/aritayoshifu/status/1558225164386836481

《 そして、再び加藤勝信氏が厚労大臣に。
  加藤氏は2018年の働き方改革の際に、裁量労働制を社員に違法適用した野村不動産に対する特別指導をめぐり、黒塗りの一部を開示しようとした厚労省幹部に 「何の意味があるんだ」と怒号し「理屈じゃない。これは戦いなんだ」と語った方。 》 上西充子
https://twitter.com/mu0283/status/1558234691941330944