月刊『太陽』1991年8月号再読(閑人亭日録

 月刊『太陽』1991年8月号「特集 現代美術のアトラス」平凡社1991年8月12日発行を再読。表紙は舟越桂『森へ行く日』。巻頭の「中沢新一 二○世紀芸術を忘れるために 」を読む。

《 こうして、美術は現代にたいしては、巧妙に偽装された批判的共犯者として、ふるまうことになる。自分がバランスを欠いてしまっていることは、むしろ快楽の源泉と なる。オリジナルとコピーをめぐってむりやりつくりだされた問題意識のまわりには、ぴりぴりとはりつめた「批評理論」が繁殖する。写真には、不必要なほどに過大な 意義があたえられ、方向指示器を失った絵画を、さらに追いつめる。(引用者・略)印象派にはじまる、現代美術の試行錯誤の連続は、自分たちの「いま」を説明するために 都合のよい、ひとつのストーリーにしたてあげられ、現代美術はひとつの必然性として、説明されることになる。 》 7頁

《 それは、さまざまな試みをしてみたけれど、いたるところで進化の袋小路にはまりこんで、ついには絶滅していった古代生物に似ているのかもしれない。現代美術を 全面的に肯定するか、それとも意味がないと断定するか。ふたつの極端のあいだで、ぼくの思考は揺れ動く。 》 7頁

《 だが、世紀末の人間は、なによりも冷酷でなければ、自分がつぎの世界のマトリックスとなることはできない。たましいのわざとしての芸術をとりもどすためには、 二○世紀美術をまず忘れてしまうことのほうが、大切なのではないだろうか。美術史や美術評論が、マゾヒスティックな快楽をそこからひきだしてくる、あの「現代」を めぐる必然のストーリーなるものを、いち早く忘れることができたものだけが、つぎの世界をかいま見ることができる。幸運にも、「現代」にたいする責任感をもたない、 極東の島国の若い芸術家たちの何人かは、すでにそのような戸口に立ちはじめている。 》 7頁

 三十年前の初読ではよくわからなかったが、今ではびしびしとわかる。
 美術評論家でもない門外漢の私は、流派や受賞歴には関心が無い。ただその作品=商品が自分にとって魅力的であるかどうかが、作品=商品の善し悪しの判断の基になる。 味戸ケイコ、マンガ家のつりたくにこ・・・。半世紀ほど前から評価、応援してきた。ただの絵本画家、ただのマンガ家、という低い評価ばかりだった。そう思いますかと、 無言で応じた。つりたくにこの作品集は、2019年にイタリア語版が、2020年に英語版が(年末に再版)、2021年にフランス語版が出版され、2022年には近々、ブラジルから ポルトガル語版が出版される。「つりたくにこ」のマンガは世界を巡る。
 2010年にK美術館で開催したつりたくにこ展の展示のお手伝いをしてくださった平野雅彦さんのブログ。
 http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1362.html
 http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1388.html

 ネット、うろうろ。

《 絵を描くAI「Midjourney」なぜ人気? 「画家を駆逐するリアリティ実感」...識者が考える「人間への問い」 》JCSTニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/382797d8c04bbf7d67f052b1b59b512b3c9fdcb3?page=1

《 餓鬼岳、難路表記じゃないのがおかしいと思うくらいきつかった。 》 階段巡りツイッター
https://twitter.com/kaidanmeguri/status/1558338174673244160

《 岸田首相は新たに政府へ招き入れた政治家に、所謂「統一協会」との関係を「厳正に見直すことを言明し、それを了解した者のみを任命」したと述べていたが、 総務政務官に起用された杉田水脈氏は「統一協会の協力、支援は何の問題もない」などと常軌を逸した見解を平然と述べていた人物。全てが口だけ。 》 異邦人
https://twitter.com/Narodovlastiye/status/1558354821131841536

《 日本人は #9条 を本当に「まもっている」のだろうか?

   #想田和弘 「本当に平和主義や立憲主義を守りたいと考えるのなら、自民党改憲案が実現しようがしまいが、現在の9条がすでに事実上死文化しているという 受け入れがたい事実に、正面から向き合うべきだと思います。」 》 石川智也 イシカワトモヤ
https://twitter.com/Ishikawa_Tomoya/status/1558328646758445056