『社会的共通資本』再読・五(閑人亭日録)

 宇沢弘文『社会的共通資本』岩波新書2000年11月20日第1刷発行、[「第4章 学校教育を考える」を読んだ。

《 学校教育のパフォーマンスは、社会的統合、平等主義、人格的発達という、三つの機能について、一人一人の小どもたちにどれだけの効果を与えることができるかという ことによってはかられる。しかし、それは決して、単一的な尺度をもってはかることのできないものであって、きわめて個性的なものであるということを指摘しておきたい。  》 134頁

《 専門技術主義=能力主義の考え方は、産業資本体制のもとで、かなり説得力をもつ。高度に発展した技術を基礎に置く近代的産業の生産技術は、知的な教育を受けた 人々によってはじめて効果的に機能する。(引用者・略)
  アメリカでは一九六○年代を通じてリベラル派の教育理論にもとづく教育制度の改革が積極的に進められたが、いずれもほぼ完全といってよいほど失敗してしまった。 そのもっとも主要な原因は、社会的統合、平等化、人格的発達という学校教育の機能が、法人資本主義という経済的、社会的体制のもとでは整合的なかたちで働くことが できないということにあるというのが、ボウルズ=ギンタスの主張するところである。
  法人資本主義の体制のもとでは、社会的な生産関係はヒエラルキー的分業にしたがって、官僚的秩序を通じて、上からの権限と管理の体制によって規定されている。 それは、新古典派経済理論の説くような、完全競争的市場を前提とした限界生産力説にもとづくものではない。生産を担当する起業は一つの有機体的な組織として、 中枢的経営・管理体系によって秩序づけられていて、その社会的関係は決して民主主義的なものではないし、また効率的なものでもない。(引用者・略)
  労働者、技術者あるいは経営者自身すら、外部的な権威と市場的な基準にしたがって、各法人企業のヒエラルキー的分業に強制されているというのが実状である。  》 142~143頁

《 法人資本主義体制のもとで、市場的な基準にしたがって、人々が雇用され、働くとき、そこには、内発的な動機にもとづいて、自らの行動を選択するということは、 一般の労働者、技術者にとってはほとんど職を失うのと同じ意味をもっている。 》 144頁

《 経済の社会的関係を規定する法人資本主義という制度そのものの改革には直接ふれないで、教育制度だけを改革しようというリベラリズムの立場は、このような視点から 見るとき、まったく意味のないものとなってしまう。 》 144頁

 続いて大学の課題、問題が語られる。発売時よりもさらにひどくなっているな。

 ネット、うろうろ。

《 なぜ専門職の図書館司書が非正規なのに、異動繰り返す「素人」が正規職員なのか 官製ワーキングプアの構図 》 弁護士ドットコムニュース
https://www.bengo4.com/c_5/n_15163/

《 私にも現状はそう見えます(「もともと」はそうだったはずだがという意味を込めて書いてます)。美術業界は延命するため社会との和合を優先する傾向が強く、 一方見る側の中にも「政治性」への忌避感情が潜在しています。こういう中では「事もあろう」にも工夫と仕掛けが必要になってくるかと思います。 》 大野左紀子
https://twitter.com/anatatachi_ohno/status/1586119170395340805

《 「被疑者死亡で送検」
  はたまに聞くが、

  「被疑者死亡で国葬
  は世界的に珍しい。 》 清水 潔
https://twitter.com/NOSUKE0607/status/1586122013201997825